歴史スポット 最終更新日:2010.5.7
雀宮地域には多くの史跡が残されています。下の地図を参考に探索してみてください。

地図内記号 歴史スポット 地図内記号 歴史スポット 地図内記号 歴史スポット
A 雀宮神社 H 牛塚(大人塚) M 西原開拓記念碑と地神像
C 笹塚古墳 I 西国三十三観音 N 納豆内
D 茂原観音堂 J 中島西光寺 O 鈴木源之丞供養塔
    E 中島神社 K 鳴神遺跡 P 琴平塚古墳群
F あらだて地蔵 L 橋名の由来
(田町与橋、孫八橋、野ゾ花橋)
G 熊野神社



「琴平塚古墳群」

 二木ゴルフ宇都宮インターパーク店の南に、「琴平塚古墳公園」があります。琴平塚古墳は、5世紀末から6世紀前期に造られたと思考され、前方後円墳が3基、円墳が11基確認されています。古墳の東側から古代の道路跡(東山道)が発見されました。大部分は発掘調査後、インターパークの開発で消滅しました。現在公園内に、1号墳(前方後円墳)が現存し、古墳群の最北に位置していた14号墳(円墳)の、堀の底に存在していた「箱式石棺」が移設して展示されています。

義民 「鈴木源之丞 」供養塔

約250年あまり前の1753年(宝暦3年)、宇都宮
の町で突如として農民一揆という暴動がおき、その
首謀者として処刑された、御田長島の庄屋「鈴木源
之丞」を当時の村人たちが、その死を惜しんで、
1764(明和元年)13回忌の法要にあたり、御田長
島神社北に、六角の石柱を建て御霊(みたま)を、ね
んごろに供養したと伝えらています。約250年の長
き年月、風雨にさらされて、六角の石柱は痛みが激
しくなりました、このたび子孫の手で立派に改修され
ました。
250年間風雨に晒された石柱 源之丞を称える歌碑
子孫の手で改修された供養塔 供養塔に歌碑が飾られた
法要の様子


橋名の由来
納豆内
国道4号線を宇都宮市街地に向かって、雀宮神社前をとおりすぎて約400M進むと、宮の内2・4丁目に「納豆内」というバス停があります。現代の地名は宮の内ですが、戦前までの地名は「納豆地」であった様で、その由来はさまざまで確実性はとぼしいものばかりである

 雀宮神社のご納戸役だった、いや宇都宮城ご納戸役の屋敷があったからこう呼んだ等、想像的のものばかりあった。しかしながらこんな説もあり、真実に欠けるとはいいながらも、多少うなずくことの出来るものがある。
 
 それは、康暦2年(1380年)裳原(茂原)において、第11代宇都宮城主・宇都宮基綱が小山義政と戦い、基綱が戦死するいう大事件が起きた。この戦いを「裳原の戦い」といい、宇都宮勢は小山勢の
ゲリラ戦法にひっかかり大敗し、宇都宮にあわてて逃げた。
 
 地元の言い伝えによれば、その戦いの時、この村が補給処でも有ったのか、退去した後に兵糧が山と残っており、カマス入りの大豆が見つかった、よく見ると大豆が醗酵して「納豆」になっており、小山勢は大助かりしたという。
 
 こんなことがあってから誰言うことなく、
「納豆地」とか「納豆内」などと呼ぶようになった。とされる。  
(吉野益太郎氏著:「今昔雀宮」 より抜粋)


西原開拓記念碑と地神像
昭和16年,15組の入植者が当時の西原地区に入り、苦労をしながらも成功しました。
この先駆者たちの苦労に感謝するとともに末代までこれらのことを伝えようと入植
35周年を機に設立、祝福しました。この開拓村の鎮守として「地神」が祀られており、
例祭は「勤労感謝の日」になっています。
開拓記念碑 地神像



橋名の由来

田川には(雀宮地域)上御田橋・中島橋・下反町橋・田町与橋・孫八橋・野ゾ花橋・2000年都橋の7橋がある。終戦後までは、いづれも木橋ばかりであったが、現在はコンクリートと鋼材の混合半永久橋として架け替えられて、昔の影をとどめていない。
 川には歴史があるように、橋にも面白い伝説などがあって、橋名を見ただけで心ある人は”あれっ”と立ち止まって橋名を見ることだろう。

上記7橋の内、少しばかり珍しい名の付いている、3「橋」の由来は?

田町与橋

 昔の真岡街道田川橋として、流されては架け、架けては流された木橋であって、これには地域住民が必死になって護って行きたい”橋”としての話が残っている。
 この橋は雀宮〜東谷〜東汗を経て真岡に通ずる旧道上に架けられている大切な橋であった。洪水のたびに橋が流されると、水が引けるまで人馬の往来が途絶え、役場や農協に行くことができず不自由な生活を強いられてきた。

 橋が無くてはならない、ということで、県に申請書を出し陳情を重ねた結果、再び架け替えることが出来た。村民一同完成を祝い、永久にこの橋が流れないように念じた。

 橋名には人柱にかえて村全体の願いを封じこめようということで、村名と請け負った頭(かしら)をもらうということになり、この辺は御田・下横田など田の字がつく村が多いことから、まず”田”の字を選んだ。そして反町と下横田を結ぶ橋として”町”の字が選ばれた。後は橋大工の頭の名ということで与”のじができた。
そしてこれが〔田町与橋〕となり、その後は概ね平穏無事だった。

孫八橋

 ”孫八橋”は旧田川の洪水から市民の生命・財産を護る為、河川改修を兼ねた失対事業の一環として完成した橋であり、橋名はこの地名から得たものだといい、この土地には”孫八”という百姓が住んでいたところであるとされる。

 県道の変更により羽生田から東谷へ直通に走るこの道路は、昭和35年12月「新県道真岡線」として生まれ、旧道より幅員は倍にも広くなった。

野ゾ花橋

 のぞはな橋って何だろう、こうした由来は聞いてみれば「なあんだ」と失望するものだが、みな夫々の理由を持っているもので面白い。この橋は長島から下横田に通ずる市道で、昔は小さい道があり、橋も木橋で極く小さく、仮橋的なものであった。昭和51年3月に道路の拡張に併せて、永久橋にした。

 橋名の”のぞはな”は地名から採ったもので、この地をのぞはなと呼び、昔は、この川原を利用して、地芝居を毎年行い、農休みの日が農民の憩いの日だった。村の人たちが舞台に立ったこともあり、役者を呼んでは歌舞伎など上演した。

 この際、この台地から、芝居小屋の舞台はなが良く見える為、”のぞきっぱな”と言うようなことが〔のぞはな〕になった、と下横田の人達はいう。

 また”のぞはな”があれば、舞台という所がなくてはならない。そうです、舞台という地名がありました。のぞはなの対岸に、ちゃんと残っていてくれたのでした。

鳴神遺跡


針ケ谷町下坪の野仏群の西側に位置する。⇒



2004年3月まで発掘作業が行われ、宇都宮市
からも「鳴神遺跡発掘調査」としてすでに報告
されている。


 詳細を「宇陽ぷれす」第12号より抜粋してみます。

---鳴神遺跡は針ヶ谷町にある遺跡です道758号の改良工事に伴い、約90メートルの区間を調査しました。
調査区内南側の地域に竪穴住居跡が10軒確認されました。竪穴住居跡は、平面形が直径4〜6メートルの
円形で、石囲炉を伴うものもありました。また、食料の貯蔵用と考えられる袋状土坑が10基ほど確認されま
した。遺物は、縄文土器・石皿・磨石・蜂巣石・打製石器・磨製石器・石ぞく・石錐が出土しています。また
、道路および墓地に沿うように5本の溝跡が確認されました。底からは、縄文土器のほかに、古銭や陶磁器・
五輪塔などが出土しています。この遺跡は縄文時代中期から後期(約5000〜3000年前)及び中・近世の遺跡
と考えられます。---

雀宮地域には、ほかにも遺跡が発掘されていますので今後も紹介して行きます。

市役所に展示された出土品を紹介します。



彩色がされています


錐・矢じり


土錐・壷の破片


磨り石・蜂の巣石
 針ヶ谷の発掘現場で撮影したものです
 蜂の巣石  石斧
 縄文模様を見てください  刺して使ったようです

中島西光寺 周辺

日蓮宗布教塔

土墳塚(胴身塚)

西光寺

中島十家の墓(亀の背に乗っている)

中島西光寺

 このお寺は、天台宗東光山西光寺と号し、寛永2年(1625年)大僧都(だいそうず)祐弁の開基と伝えられ、本尊は5尺5寸の阿弥陀如来である。
 第五世見能和尚の時代に伽藍を整え道場を開いたが、文久2年(1825年)から明治初期まで無住であったため荒れ果てた。第十三世円道・第十五世観照・第十六世安昭の代々により修復維持され、現在に至っている。
 本堂正面には、日光輪王寺貫主(かんす)を勤め、天台宗座主(ざす)になった菅原栄海師の直筆になる「東光山」の山号額が掲げられ、参道左側にはしだれ桜の大木がある。

 また、右奥には「中島十家の墓所があり、宇都宮で2箇所しか見られない、亀の背に乗った珍しいお墓が存在している。

日蓮宗布教塔

この方塔は、明治20年代に疫病が流行ったため日蓮宗への信仰が昂まり、従来の天台宗と併せて日蓮宗に帰依する者が多くなり、近郷の有志が浄財を集めて建立したものであるという。

 中島集落の丸山氏宅前道路に面していて、比較的判りやすい場所に存在している。

土墳塚(胴身塚)

裳原の戦いで傷を負った武士が茲で雑兵に突き殺された所で、首は下横田に飛び、首から下をこの塚に埋めたとされる。それ以来首のない胴だけの幽霊が首を捜して歩き回り「うらめしい」と言って通行人を悩ましたという。

上記「日蓮宗布教塔」の東隣、小嶋氏宅の裏庭に存在している。

                                     


西国三十三観音

御田神社から水草坂を下り300m東へ進むと加藤家があるが、その入り口に「西国三十三観音」が安置されている。これは、3代前の当主が婿養子に来たとき、その両親が子息の末永い幸せと、家内の繁盛とを祈念して贈ったと言う。かっては、近在の人々が集まってご詠歌を唄い、お参りしたというが、今は行っていない。

(註)水草坂:雀宮地域で唯一名前のついた坂道。御田神社北側道路。

牛塚(大人塚)

雀宮地区市民センターから歩いて3分位のところに牛塚がある。かつては古墳だった。
ここからは国宝級の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)、三鈴鏡(さんれいきょう)、匂玉などが
出土したことから国王級の人の墳墓とみられてる。
その大きさは高さ薬5m、周囲180m、形は帆立貝式前方後円墳であったと言われている。
明治14〜15年ごろ道路改修等のため、古墳の土が必要になり発掘調査の結果、出土品から高貴な人の
墳墓とわかった。今は写真のような祠(ほこら)が建立され近辺の人々が欠かさず供え物をしている。

熊野神社

安塚街道沿いに建っている社銘柱から参道を100m位進むと、桜、杉、ケヤキのうっそうとした境内がある。
室町戦国時代の元亀2年(1571年)、紀伊国の熊野神社の神霊を請じ迎えてまつったものと言われる。その後
慶長12年(1607年)生田内匠尚定(いくたたくみなおさだ)が、この地を治めたとき武運長久を祈願して再興した。

あらだて地蔵

雀宮宿の「下の木戸」(南国フルーツ)から約100メートル西へ行くと、共同墓地の入り口に地蔵尊があるが、これが「あらだて地蔵」である。
 この地蔵尊は、安政6年(1859年)に宿の旅籠屋5人が世話人になって、寄進した。
 雀宮宿には、大勢の旅人や商人が通行し、宿泊したり、休憩したりしたが、この人たちを接待する「下男・下女」が越後や出羽、下野の各地から働きにきていた。
この墓地には、これらの旅人や下男・下女が亡くなったとき、その亡骸を葬ったと伝えられ、供養のために地蔵尊が建てられたという。今でも近所のお年寄りが、赤頭巾と赤い前掛けを取り替えて、大切に供養している。


中島神社

今も神仏混淆の名残を留めている中島神社は大日様とも言われているが祭神は
大山祇神(おおやまづみのかみ)である。
拝殿の前には立派な狛犬が威容を誇っている。



茂原観音堂

この観音堂は天保時代の「日光道中略記」にも紹介されている真言宗の寺院であったが、同時代に焼失して観音堂だけとなった。承安4年(1174年)に宇都宮三代城主の家臣であった茂原城の城主だった裳原遠江守家次(もばらとうとうのかみいえつぐ)が当時西国二十一番札所であった丹波の安太寺(あのうじ)の本尊、自在菩薩の分身をお迎えして建立したのが最初であると伝えられている。
下野三十三観音の二十番札所であり昔から子育て、安産にご利益のある観音様として地元の信仰は篤く、60年に一度の御開帳には盛大な御祭りが行われている。


笹塚古墳

古墳入口
薬師堂
栃木県の古墳時代中期古墳の中では大きく、この地域では最初の前方後円墳で県の史跡文化財に
指定されています。5世紀ごろこの地にいた豪族「雀部(
ささきべ)」とも関連し、天皇家に関係のある高
貴な方の御陵であろうと言われています。
全長約100m、後円部は直径63m、高さ15m、前方部は幅48m、高さ9mの巨大なものでその後円部
墳頂に薬師堂が建てられています。
このお堂の創建は相当古く、文政6年(1823年)には既に改修されたという記録が残っていて木造の
釈迦如来と薬師如来が祀られています。

 


御田神社

この神社は、天宝11年(1840年)に大日塚古墳の墳頂を
削って建てた物で、祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)
だが昔この地にあった天台宗「満蔵寺」のご本尊大日如来が
祀られていたため地元では今も「大日様」と呼ばれ親しまれ
ています。

                                     

 


雀宮神社


創建は長徳3年(997年)といわれており、平安時代の官社一覧表である
「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう」に下野11社の中の一つにも数
えられている由緒のある神社です。
祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)のひ孫にあたる
御諸別命(みもろわけのきみ)と伝えられています。
正徳3年(1713年)には中御門天皇から金文字で書かれた勅額『雀宮』が
下賜され、これが社頭に掲げられていた為、将軍家始め諸大名の通行の際には、
下乗して参拝したそうです。