*** 回想 「教育」 ***

「オッ」 「ワッ、ドキドキするね」
目前に迫る赤白のゲートが上がりそこを通過した。そこは東北自動車浦和本線料金所。初めてETCを搭載し、2回目のゲート。時速20km程度に減速するが、何故か二人とも大きく目を開き、心臓の鼓動も早くなる。減速すると後続車が急接近する。ルームミラー越しに「減速しすぎ、シロートが!」という顔が見え隠れする。ルールを守っているのだが、何故か悔しく思う自分がそこに居た。横の景観から縦の景観に変化する異次元の東京に入り、ビルの谷間やトンネルを潜りながら首都高を抜ける。現存する景観ワープだ。
東名高速に入り、彼女がリモコンを手に選曲した。クラシカル・クロスオーバーを世界中に広めた一人の天才ピアニスト。銀盤の貴公子、旋律のマジシャン、華麗なビジュアルで女性に圧倒的人気を誇るのマキシム。彼の魔手に掛かった有名なクラシックは、いつ聞いても心底を響かせ雑念を洗い流してくれる。その爽快なリズムにも乗り、景色は次から次へと後方に流れる。
ふと聞きなれた電子音が鳴り、目をカーナビに移すとVICSによる交通情報がポップアップされた。 「厚木インターを先頭に16kmの渋滞で通過時間90分だって」「手前のインターで降りて一般道に出て!」 運転に没頭していた脳が彼女の声に覚醒し、思わず心の中で踵を揃え敬礼した。「了解!」
今日は混雑が嫌いな二人が、GW明けの土日に計画した一泊のドライブ旅行。高速を降り一般道に入り、少し渋滞を避けながら海岸線を進み、町並みから温泉街を抜けた。山道に入ると躍動する緑、静寂な緑、そして光の粒が降り注ぐ狭間が繰り返される。光と色彩が奏でるコンストラストに目が和む。カーナビの指示したY字路を右に曲がり、強羅駅前の踏み切りを渡る。直ぐ左折し道なりに進むと、そこに二人の男女が立っていた。ここは今日の宿泊地、ホテル強羅天翠。
車のキーと荷物を預けホテルに入ると、目の前には畳引きのバーカウンターがあり、女将に進められるまま靴と靴下を脱いだ。靴下は女将が預かり、洗濯して明日朝届けると言う。カウンターの下が足湯になり疲れた足を癒してくれる。地ビールのウエルカムドリンクを頂きながら、チェックインをした。窓の外には緑が溢れ、あまりの居心地の良さに時を忘れる。部屋に入り、窓を開け紫煙を外に吐いていると、いつものものように部屋を見回しながら彼女が言った。
- 「ここの従業員、若い男性が多かったけどしっかりしているね。同じサービスでも対応の仕方一つで全然違うし、受け止め方が違うよね。お客を満足させることが自然にできているって感じ。教育が行き届いているのね。」
- それを聞いた私は、頷きながら紫煙をまた外に吐き胸を撫で下ろした。
- 「フー。(よかった。珍しく高い評価だ。先ずは合格と言う事か。若い男性従業員も原因か)」
- 「何か言った。そう言えば、この部屋時計がない?」
- 「それもサービスじゃないかな。普段は毎日時間に追われて、時間が余れば大切な時間を潰しているだけだけど。時を過ごしてください。時間を私たちに預けてください。と言う意味じゃないかな」
- 「ねえ、熱でもあるんじゃない。珍しく真ともなこと言うじゃない」「(何もいえない)」
その後、天然温泉の露天風呂に入り少し横になった後、個室風ダイニングで夕食を頂く。1品ごとに丁寧な説明があり、薄味の中素材を強調した料理長のこだわりが感じられる京風懐石。翌日朝食後、バーカウンターで豆引きから始めたコーヒーが出される。従業員と接するたび心遣いが感じられ、心地よい時が過ぎていった。
帰りは、富士山を眺めながら中央高速から八王子ICでおり、西多摩霊園でお墓参り。そして日の出ICから圏央道、関越道、外環道を通り東北道に入った。途中SAのレストランで昼食を取り、レジを待っていた時のことである。前には、5,6歳ぐらいの僕が母親のスカートを掴み立っていた。母親がお金を払い終わると、その僕が大きな声で言った。
- 「ごちそうさまでした」
- そして私が、お金を財布から出している時、囁くような声が私の耳を刺激した。
- 「○○を払ってるんだから、ごち○○○○言わなくてもいいの」
- その声に首を左にちょっと振ったところ、俯いている僕と膝を曲げている母親が目に入った。ちょうど左後ろ側に居た彼女も聞いたらしく、私の目を覗き込んだ。そしてお金を払い終わった時、ハッキリとした口調で私と彼女が言った。
- 「ごちそうさま」「ごちそうさまでした」
- その時、手を取られていた僕がこちらを振り向いた。私はウインクし、彼女は胸の高さで小さく手を振った。僕は小さく頷いた。
作成:2007/07/04
・マクシム ムルヴィツァ(Maksim Mrvica, 1975年5月3日生)(日本通称:マキシム)
75年クロアチア生まれのピアニスト。90年から始まったクロアチア戦争時も、戦火の中地下室でピアノを弾き続けたという彼は、93年に国内コンクールで優勝、ザグレブの音楽学校に入学する。その後ブタペストの音楽学校で学び、ニコライ・ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールで優勝、パリに移ってからの01年、ポントワーズ・ピアノ・コンクールにおいても優勝を果たす。これをきっかけにクロアチアへ戻り、クロアチアの現代音楽を弾きこなした1stアルバム『ジェスチャー』をリリース、国内で大ヒットを記録し各賞を総なめにした。
その噂が、作曲家トンツィ・フーリッツィの耳に入り、ボンドのプロデューサーのメル・ブッシュと出会うことに。ポップスとピアノが融合した世界デビュー・アルバム『ザ・ピアノ・プレイヤー』を03年にリリース、その端正なルックスとこれまでの経歴が話題を呼び、“鍵盤のプリンス"と称され世界中でヒットを記録した。この勢いのまま04年には2rdアルバム『ヴァリエーションズ』をリリース、青年から思慮深い大人の顔になってきた彼の今後が楽しみな一枚に仕上がっている。