*** 回想 「慈悲」***

窓からの暖かい日差しを浴びながら、畳の上で枕に顎を乗せ小説を読む。1ページも読むと瞼が重くなる。懸命に目を開けようとするが、本は手を離れ、腕は枕の下で重なる。枕に顔を埋め呼吸をしたが、息が苦しくなり顔を横にした。なに一人で馬鹿なことをしているんだろうと自己嫌悪に陥っている時、目を少し開くと床の間の掛け軸が・・・。
枝垂桜で有名な円山公園から智慧の道を歩き哲学の道に行く途中、右手にある木造の門を通る。目に入る光は鮮やかな赤や黄色が占領する。瞬きを繰り返し静かに目を閉じてもその残像は消えない。首を右に廻すと、占領していた赤や黄色が少し薄れ、青い空と白い雲が漂う池が支配する。
ここは平安時代初期に、古今和歌集にも歌を残す歌人・文人の藤原関雄(ふじわらのせきお)の閑居だった地を、彼の没後、弘法大師空海の弟子・僧都真紹(しんしょう)が寺に改めた。通称、永観堂(えいかんどう)。また、東山随一の紅葉を演出することから「もみじの永観堂」と呼ばれている。永観堂の名前は第七世法主永観律師(ようかんりっし)に由来している。正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)。永観堂は、四季折々いつ来ても静寂の空気が漂い、時の流れを止める。
拝観料を払い、釈迦堂から瑞紫殿、御影堂と順番に回廊を歩いてゆくと、旅の大きな目的の本堂にたどり着く。本堂に入ると、正面には首を左後方に振り返っていることで有名な「みかえり阿弥陀如来」(重要文化財)が目に入る。正面から右手に周り、畳に正座する。阿弥陀さまの愛らしいお顔を拝見し、手と手を合わせる。これは永観律師が念仏行道しているとき、阿弥陀さまが壇をおりて先導しはじめた。永観は驚き立ちすくんだところ、阿弥陀さまは左肩越しに振り返り 「永観遅し」と言われた。永観は、その慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀さまに願われ、今にその尊容を伝えているという。
心の鼓動の刻みが小さく波打つ音を聞き、漂うかすかな風を感じ、瞼を閉じる。思考の揺れがいつの間にか収束する。全身の力が抜け、気持ちが落ち着く。それから立ち上がり、そこにある文字を読んだ。「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけり」(千載和歌集)
- この歌は、永観律師の歌であり、その意味は現代的に解釈すると
- ・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢
- ・自分自身の位置をかえりみる姿勢
- ・愛や情けをかける姿勢
- ・思いやり深く周囲をみつめる姿勢
- ・衆生(しゅじょう)とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき
- 真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心。
ガタン!「ただいま」
- 「あれ、寝ていたの。ボーッとして。ねえ正月の旅行予約してきたよ。久しぶりに京都。前回行ったの2年前?」
- 「夕食も予約しておくね。いつもの祇園の店でいいでしょう」
- 「エッ・・・・・・???」
- 彼女は、掛け軸を見ながら言った。
- 「みかえり阿弥陀さま、もうすぐお伺いいたします。あれ、何驚いているの?」
京都に行かれましたら、ちょっとお勧め、丸1日をかけてのんびりと歩くコースとして、清水寺から二年坂・一年坂を下り、ねねの道から高台寺、円山公園を散策し、智慧の道から南禅寺や永観堂へ。そして哲学の道を歩き銀閣寺へ。ちょっと大変かな。京都はあっちこっちよりも、ある地域や方向を決め、のんびり歩いて旅をするのが良いですね。夜は祇園あたりで夕食を。内容のわりに意外と安いです。予約は必要ですが。では。
「ちょっ、ちょっとまって。今回出番少なくない!」
作成:2007/11/07
・京都旅行では必ず行く、心が落ち着く「永観堂」
「おく山の岩がき紅葉散りぬべし、照る日の光、見る時なくて(古今集)」
この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょう 797−873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、“モミジの永観堂”として千百有余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。
真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に、「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」と照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし 1033−1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず 1166−1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけり(千載集)」
と詠まれた永観律師(ようかんりっし 1033−1111)はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133−1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177−1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201−1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?−1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院を設立されました。永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。「永観堂ホームページより」