宇都宮市 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
| 犬飼城sk | 千貫坊遺跡sk | 徳次郎城sk | 下横倉城sk | 飛山城sk |
| 石那田城sk | 大堀城sk | 『江曾島城』 | 『うつのみや城??』 | 宇都宮城(写真のみ) |
| 『平出城』 | 田中城sk | 多気山城sk(一部) | 猿山城sk | 『下川田城』 |
| 『桑島城』 | 刑部城(解説のみ) | 北ノ館(写真と文のみ) | 戸祭城(写真のみ) |
犬飼城sk・上欠町根小屋
位置(マピオンへのリンク)
copyright.2005 masaki |
| 【解説】 作成 1982年11月28日作成 今から23年前の調査結果であり、少々難有りの図である。 後北条氏が宇都宮を攻めた時に改変されたという推論があるが 確かではない。 |
![]() copyright.2005 masaki |
| 【解説】 本会・関口和也氏が遺跡の報告書から発見した中世城郭。 中世の遺跡として紹介されていないようであるが、図化してみると マンマ中世城郭。 Cの下横倉城と同侵食谷を守る位置にあり、関連が伺える。 |
![]() copyright(C).2011masaki |
| 【解説】 1985年の調査結果である。 少々、難あり。 残存は良好である。 図の主郭外側の曲輪の上部から2番目、左から右に田川に向かって延びる空堀は、 道路として掘り下げられた可能性もある。 |
| 再訪 ・徳次郎城 2011/10/08 |
◆まだ途中 |
![]() 【解説】 娘のサッカーの迎えまでに2時間30分ほどあったので、徳次郎城へ行ってみた。 前回来たのが、1985年であるから、なんと26年ぶりの再訪である。 まだ、秋も日が浅いが、草も大分落ち着いているようだ。 しかし、まだ蚊がいるぞ!早速顔を刺され痒い、痒い! 午後2時。 意を決して、藪に突入!タイムリミットは4時30分。 描きはじめたはいいが、主郭の形が合わない! 今シーズン初めの茨城県の長者屋敷でもそうであったが、いきなり四苦八苦。 徳次郎主郭は基本的に四角形のようであるが、微妙に頂点角度が90度でない。 おまけにやたら広い。一辺100メートル以上。 ここでおもわぬ時間を消費。 ◆主郭虎口(左) ![]() ◆内堀 ◆内堀(正面は田川) さあ、次は外郭だ。 わ!でかい! なんだこのでかさ! これまた合わない! 一度描いたのに、なんで合わないんかなぁ。 …とまぁ、線が納得行くまで同じ所を行ったり来たり。 結局、全部書けずに時間切れ。 また、中途半端な城を作ってしまった。 ![]() ◆外堀 ◆外堀 家に帰って、1985の図面をみてビックリ! パーツ等の見落としはないものの、曲輪の形が、全然ダメ。 微妙な角度になやまされ、つじつまをあわせたのか、とんでもない主郭の形になっている。 まあ、この頃は、方位磁石も持たず、全て方向感覚だけで描いてたから、こんなもんかな。 俺も、ケツが青かった。 本来は、恥ずかしくて削除したい画像だが、自分への戒を兼ねて、このままにしておこう。 こんな図面を描いててはダメだ! ![]() ◆1985年 ◆2011年 しかし、26年前に来たはずなのに、図面を描いた記憶がほとんどない。 ただ、当時は、主郭と2の郭の堀から、直接、田川に降りる事ができた。 その川の美しさに、ペンが止まった事だけは鮮明に覚えている。 あの頃はまだ東京に住んでいたから、感動もひとしおだったろう。 まさか、あの頃は自分が栃木県民になろうとは夢にも思っていなかったから。 いま、その場所は、田川に直接は降りれず、目の前に堤防ができていた。 時の流れを感じずにはいられない。 ◆ソバ畑の向こうが徳次郎城 |
| 主郭を詳しく見てみよう。 主郭は、ほぼ全周に土塁がまわる。 土塁の切れ目開口がまず虎口の可能性があるが、A北東田川よりの土塁開口は、虎口ではない。 1985年の私の縄張り図、中世城郭事典の中田正光氏(おそらく○年)の図面を見ても、かつては、土塁が回っていた。 残念だが、明らかに近年の破壊である。 次に、Bであるが、車両道のB1は、破壊痕である。 1985年の筆者縄張り図面のbには、当時、堀底へ降りる道があった。 それに当たるのがB2?ようだが、今の位置と、85年の位置が、どうもあわない。 私が見たbは、どうやら、B1の車両道によって潰された感がある。B2も後世の改変ではなかろうか。。 はっきりと虎口と言えるのはCである。 主郭土塁の切れ目が、塁線のコーナーに当たる。 ここに外郭に向け橋を掛ければ、しっかりとした横矢になる。 |
![]() copyright.2005 masaki |
| 【解説】 調査1986年。なんでも東側峯続きに、大きな 堀切があるようであるが、見落としてしまった・・・・・・・。 |
![]() copyright.2007 masaki |
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| 【解説】 最近史跡公園として、大々的に整備された。 最外郭の北側や、主郭内部も発掘成果を基に、堀・土塁が復元された。 横矢が発達しており、最外郭の張り出しはこの城を特徴付けるものである。 また、空堀両側に土塁を設けているのも特徴的だ。 |
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| 復元された張り出し | 旧状のままの張り出し |
| 同慶寺(飛山城の支城?) | |
![]() 飛山城の対岸。 国道を挟んだ東の丘に、同慶寺がある。 この寺は飛山城の支城があっとされ、内堀・外堀で固められた, かなり大きな規模の城であったという。 堀跡でもみれるかな? と思い、真夏だが同寺を訪れてみた。 しかし、『ん?』という感じで、どこに堀跡があるか皆目検討つかない。 もうちょっと、下調べをして出直す事にしよう。 同寺にある、芳賀氏歴代の五輪塔、宝篋印塔を見て、この日は退散した。 |
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![]() copyright 2007 masaki |
| 【解説】 宇都宮氏家臣の城と言われている。 有料道路工事で、大半が破壊された。 現在は上記のように、一部の残欠のみである。 城の南には田川が流れ、天然の堀となる。 主郭西の堀は、異常に狭く、埋め立てられている可能性がある。 田川に近い方に横矢が一箇所見受けられる。 |
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| ◆主郭西の堀跡・・・多分、かなり埋められている感じを受けた |
![]() copyright2006,masaki |
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| 【解説】 姿川の支流、大堀川の西岸に位置する。北に今宮神社が隣接する。 現在、半田氏の敷地北に堀が明瞭に残る。 聞き取りによると、かつては下記のように堀が回っていたらしい。 半田邸の現在の入り口で、堀がクランクし、横矢がりが存在した可能性もある。 参考文献・栃木県の中世城館跡 |
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![]() ◆ 堀の推定・・青トーンが推定堀領域 |
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| ◆北の堀の状況 | |
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| ◆最東の堀の状況 | |
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| ◆今宮神社の入り口・・林内が堀 | |
| 【解説】 江曾島城は、前方後円墳の上にあったそうである。 現在は跡形も無く、進入不能の参道のある雷電神社があるのみである。 雷電神社は墳墓上に存在していたらしいのだが、想像もつかない。 |
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| ◆雷電神社 | ◆行くとわかるが、この参道。入れない。。。 |
『うちゅのみやじょう?』
【解説】
子供たちは、宇都宮城のかつての姿を、間違って思い描いてしまうのではないか?
市民を巻き込んでの復活劇に対しては頭が下がる。
しかし、どうしてこうなってしまったんだろう・・・。
これじゃぁ、映画のセットにも使えない。
![]() 埋み門?・・・ |
![]() エレベーター付き土塁 |
![]() 秘密基地?・・ |
![]() 土塁に倉庫・・ |
![]() ・・・ |
![]() 土塁の中は震災時の備蓄庫という・・・ |
![]() 清明台・・ |
![]() 櫓内部 |
| 伝・宇都宮城 今小路門【2010/06/13】 | |
【解説】![]() 宇都宮市郊外に、 今小路門を移築したと伝わるお宅があると情報を得た。 本ページの”北ノ館”の直ぐそばなのだが、 なるほど門構えがどっしりしている ![]() ![]() ちょっと、中を拝見させていただいた。 高麗門ではなく、薬医門だったようである。 しっかりした木材がなんとも本物っぽい。 ただ扉は見当たらないようだ。 側面の斜めに渡る梁は、後世の付け足しと考えられる。 ![]() ![]() 本物であればかつての位置はここである。 ”伝”今小路門。 前述の秘密戦隊基地のような宇都宮城本丸よりも、 こちらの方が、よっぽど美しく、しかもロマンがある。 |
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| ◆光琳寺枝垂れ桜・樹齢200年 | ◆平出城周囲現況 |
| 【解説】 「栃木県の中世城館跡(栃木県文化振興事業団」では、枝垂れ桜で有名な光琳寺周囲の民家に 一部の土塁、空堀が残されている様である。 しかし、残念ながら遺構は見つけられなかった。 当地は現在、水田地帯の真ん中に位置している。 しかも周辺には老人ホームや、墓地、民家などが建てられ、遺構の破壊は著しいと考えられる。 |
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![]() copyright.2007.masaki |
![]() ◆A部 堀(上) |
![]() ◆田中城を望む(下) |
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| 【解説】 2007年、退院して、始めて訪ねた城がここである。 場所の特定が難しく、3度目の正直で、やっと図面化にたどり着いた。 当城は宇都宮市家臣・田中氏の城という。 地主の方にお話を伺うことができた。 お話では、当地には昔、寺があり、それ以前には城?があった。 近隣の鶴カントリーゴルフ場の造成で、この地から土を搬出したため、 現在は窪地のようになっている。 搬出前までは、堀が周囲を一巡していたという。 私のように訪ねてくる人が結構いるので、 「土取りなんか、しなきゃよかった」とまでおっしゃっていた。 さて、城であるが、図のAの部分が遺構と断定できる場所である。 Aには深さ1mほどの堀と、高さ2mほどの土塁が残る。 Aから土取りに沿って北に伸びる土塁は、往時のままと考えられる。 Bは堀切のようにも見えるが、?である。 さて、城の中心部は聞き取りによると 「あ」 である。 しかし、A周辺を見ると「あ」のほうが「い」の部分より標高が低いのである。 しかもA土塁の「あ」側壁面は、土取りで高くなったように見えないのである。 そうなると、城の中心が「い」方向である可能性もある。 しかしながら「い」方向には、決定的な城の遺構が全く見受けられない。 やはり「あ」側が、城の中心部と考えるほうが穏当なのだろうか? 遺構が失われた今、断言ができないでいる。 |
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| 番外編・雲雀鳥屋付近【2010/10/23】 | |
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標高からすれば、多気山より若干低い事になる。
ジャパンカップって、 さて、登山口は、この神社。 現地では何神社か、わからない。 ここから先は、誰かが木々に付けたピンクと赤のテープが、道標だ。 踏み跡程度の道が、不安にさせる。 雲雀鳥屋までには、小さなピークを2つ越さなければならない。 しばらく行くと道は2つに分かれるが、右を選ぶ。 |
猿山城sk(写真と文)
位置(マピオンへのリンク)

| copyright.2009 masaki (※注)城という大前提の元、彩色しました。 作図の際、方位磁石を持ち合わせていませんでしたので、 曲輪間の位置関係に難ありです。 ご容赦ください。 |
| 【解説】 はたして猿山城は『城』なのであろうか? 遺構を見る限り、私にはそう思えるのである。 当地が合戦場となった記録があるが、その頃に築かれた陣の跡なのか?? それとも、近代のものなのか・・・・?? 消化不良もはなはだしいが、遺構として紹介してみよう。 あの部分は、神社である。 神社が、堀と土塁をもって囲まれる例は鹿沼市でも事例がある。 次にいの部分。 堀の深い部分は、いかにも『城』なのであるが、私には『道』に見える。 ただ、道にする為に、何故古墳を利用して土塁を作らなければならないのか? 道のために、何故平坦面を掘り下げなければならなかったのか? そこが疑問である。 仮に城として考えた場合、この遺構は防御、攻撃面の糸がつながらない。 堀は途中でどんどん浅くなってしまうのである。 中世に、猿山の地で合戦が行われたそうである。 とすると、そのときに作られた戦闘時の『塹壕』跡なのであろうか? ![]() うの部分。 区画された浅い堀と土塁は、近世の屋敷跡では?と疑いたくなる。 方形居館か!とも思いきや、江川に遮られ、四角形にはなりそうもない。 それとも、あ、い、う含め全体が、神社の跡地か?? どうにもこうにも分からないというのが、この『城?』の印象である。 さて、今回は不幸なことに、突発的な訪城だったため、方位磁石を持ち合わせていなかった。 縄張図を書いてはみたものの、図面にかなりの方位ズレが生じていると思う。 ご勘弁願いたい。 ![]() ◆猿山城をのぞむ。 ◆右手に空堀と土塁のラインが走る(図中A)![]() ◆コーナー部は確かに大きく土塁があるものの・・・ (図中B) ![]() ![]() ◆通りの向こう側にも堀?が続く(図中C) |
『栃木県の中世城郭(栃木県文化振興事業団刊)』では、 『宇都宮興廃記』に宇都宮忠綱と結城政朝が1500年、猿山で合戦したとあるらしいが、 どうも、”城”があるから合戦となったという事実ではないらしい。 単純に”猿山”という場所で合戦があったとも捉えられる。 |
【手記】 息子の弓道の検定会場である屋板運動場。 的場の検定本番までには、かなりの時間があった。 そこで、当城に立ち寄ってみることに。。。。。 最近、日光市小山城に続き、なんでこんなニッチな時間にしか訪城できないんだろう! そう思うと悲しいが、見学できるだけマシか・・・・ しかし、今回は方位磁石は忘れるわ、結局息子は検定に落ちるわで、散々な目にあった。 |
![]() |
【解説】 「栃木県の中世城館跡(栃木県文化振興事業団」では、バス停近くの神社に土塁の跡があるという。 おそらく、左記写真の場所だと思う。 稲荷大明神の横に何となく高まりになっている場所がある。 これが城の遺構の名残なのかどうか良く分からない。 その他、城域は住宅街や田んぼになっている。 その字名は、大城内(すごっ!)。 城があった事は間違いなさそうだ。 ![]() ◆付近は田んぼ |
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| ◆神社脇に残る微高地 | ||
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| ◆神社脇には川が流れる | ||
◆大城内公民館 |
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![]() ◆屋敷を正面から ![]() ◆屋敷の背後に残る土塁 ![]() ◆近くに鎮座する高龍神社。背後は古墳らしい。 |
【解説】 さて、 この手の遺構には注意が必要だ。 なにしろ、宇都宮には土塁囲みの大きな農家が多い。(下段に事例を紹介する) わたしも、過去にこの手の遺構を「城」として紹介してしまった苦い経験がある。 えらそうに、『ここは城である!』と本に書いてしまったのである。 農家の境界として築かれた可能性がある事が後でわかった。 出版物と言うのは、取り返しが効かず厄介だ。 幸い、今のところ批判は受けていないが・・・・ 話を戻そう。 桑島の遺構は、屋敷背後を巡る土塁だ。 土塁が半周分残っている。(全てを確認していないが・・・) 写真のように、一直線に伸びている。 明確に”堀”と断言できるものは残っていない。 そこが、 怪しいところだ。 実際の”城”であれば、この手の立地条件では、”土塁だけ”と言う事は、まずあまり無い。 必ずと言っていいほど、空堀・水堀が伴うものだ。 そうなると、近代の構築可能性も出てくるが、 ”桑島城”という城の存在が他で明らかなのであれば、城はもっと別の場所にあったのかもしれない。 |
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![]() ◆お屋敷に残る土塁◆ 宇都宮市内には、写真のような土塁を持つ農家が多く点在する。 これは平出の、とあるお屋敷である。 広い田んぼの真ん中に、広く四角い土塁が現れる。 土塁の高さはさして高くなく、1,0mほどであろうか。 ![]() この手の土塁は、おそらく屋敷地などの境界として、近代に築かれたものだと考える。 特徴としては、 ・土塁はあるが、堀がない。 ・土塁は直線的で折が無く、横矢意識も無い。 ・コーナーに矢倉台などが無い。 ・虎口(入口)は平入り。 などがあげられる。 ![]() とにかく、 それっぽく見える所が紛らわしい。 写真の土塁は、あまりに囲い込む面積が広いため、 『ちょっと、ちがうんじゃない??』 という気持ちにさせた。 しかし、 程よい広さの土塁囲みの家もあり、 そういう所に限って、字名が『堀の内』だったり、『宿』だったりする。 地籍図でも四角くなってたりすると、本当にどう判断したらよいかわからない。。。。 |
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![]() ◆城址看板 ![]() ◆堀は田んぼとなる ![]() ◆道沿いに残る土塁 |
【解説】 刑部城は、市指定の遺跡となっている。 城址入口にも左のような立派な看板があるので分かりやすい。 城域は、大きな農家の敷地となっている。 刑部城が桑島等と違うところは空堀が残っていることだ。 城域は、この農家周辺一帯であったと思われる。 複郭を思わせる土塁も残っているようだ。 いずれにしろ、草の無いシーズンを狙って見学させていただこう。 今回は写真のみの紹介とさせていただく。 |
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| 戸祭城(写真のみ)【2011,02,26】 |
戸祭城は、宇都宮市の中心部、祥雲寺近辺にあるという。 この城を築いた戸祭氏は宇都宮氏に属していた。 ”栃木県の中世城館跡”では、祥雲寺の南西に堀跡が残っていたとされるが、 ”日本城郭体系”にでは、祥雲寺北側に堀があると言う。 今は、破壊されていて見る影も無いらしいが、現地調査の結果では、 どこが城であったかもわからない。 ◆祥雲寺![]() 祥雲寺の裏山は全て墓地になっており、 城郭大系の言う”北側の堀”の存在は 確認できない ◆写真は頂上部 ◆祥雲寺本堂 |
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