栃木市1  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 





大平山城 第1回(写真のみ)  大平山城 第2回(写真のみ) 

 

 光明寺城sk 藤沢城 不魔城主要部sk




大平山城
(写真のみ)
位置(マピオンへのリンク)

第1回 謙信平の紅葉  2012/11/10 

平山城の中腹にある謙信平は、かつて上杉謙信が関東平野を望んだ場所という。
謙信は武田信玄に備えるために、永禄12年,、北条氏と手を結ぶが(越相同盟)、この時に大平山城に来たのだろうか?
でも、解説看板と年号が違うな。

まぁ、それはさておき・・・・・・・


       

           
 



なるほど、関東平野が一望できる。


平野を望む謙信の気持ちは
如何様なものであったのか?



















 肉眼でも見えるが、東京スカイツリー、新宿副都心も見える。
   



 
             しかし、とにかく紅葉が見事!
 




























        

         
            しばし、撮影に興じる。

        

  



























 
謙信平から少し登れば大平山神社。

 神社までの道沿いではヒガラが人なつこく近づいてくる。



       
    太平山神社裏山には、大平山城の本郭があるというが、今回はパス。





この山は視点を変えて、
栃木市方面も望むことができる。




結局、大平山からは四方八方展望が可能。
確かに、要害の地だ。






















第2回 あれ?これ堀切??  2015/08/24 

 第1回から早3年。
 管理人はやっと大平山城に行くことができた。
 しかも、夏に。。。。。
 

 実は、夏は余りにもやることがなくて、冬にそなえて体力増進活動を行っている。

 そこで、大平山城から晃石山(てるいしやま)までハイキングに行く事にしたのである(情報調査も参照ください)




 さて、管理人は2014年に栃木市の城館調査を委託され、報告書の作成をおこなった。
 その過程で、大平山城を調査された方から、この城の遺構がハッキリしていないという情報ももらっていた。
 管理人が、なかなかこの城に足が向かなかった理由は、そこにある。



   



 2015年8月24日。
 管理人は大平山城へ向かった。


       AM7:00。 駐車場は、大中寺。 誰もいない・・・、当たり前か。




    ここの山門は、皆川城のものという伝承がある。





    大中寺から、ハイキングコースをたどる。



   



30分ほど登れば、大平山神社の鳥居にたどり着く。













                 大平山城の遺構と考えられる下の堀切?は、上写真鳥居の左手の尾根上にある。

           尾根上から撮影











上の写真正面の壁が、左写真。

土塁状の高まりもあり、高さは2mほど。





























反対側の壁高さは、1m無い位。

























堀切?自体は、かなり埋まっているのか、
両袖は縦堀になっていない。

通常、
尾根の進行方向に対し垂直に堀状になる事は、
自然現象ではありえない。
つまり、これは人工物と考える。

ただし写真手前方向で、
道が堀底まで繋がっているので、
切通しの可能性も否めない。

堀切なのか?切通しなのか?










             

                      
 実に判断に苦しむところだ。


     



                     ここからしばらくはダラダラした尾根と、いくつかの平坦地形が続く。
                     
                     なにも、加工した感も無く、自然地形だろう。

                     

     

 


            さて、先ほどの堀切状の遺構から、約400m。

            富士浅間神社に到着した。







ここには、2段の削平地がある。
切岸もしっかりしている。

ただし、曲輪と呼べるかどうかは、微妙だ。


神社を作るために平地にしたと言われたら、
身も蓋もない。














 


ただ、地元の看板にはしっかり


       大平山城
(おおひらさんじょう)


















神様、本当に、これは城の遺構なのでしょうか?


教えていただきたい。















  




            管理人は、ここからさらに西に稜線を進む。


                     





   
    

             
で、ここからが、本題である。




              富士浅間神社から、400mほど西に進んだであろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




                                  ?!




              



 
          あれ!これ堀切??


        
           





 



冒頭で説明した物が堀切であるならば・・・
   





















                      
                 




           ここも堀切でイイんじゃない???  




               



      位置は以下である。

      左図はYAMAPの現地GPSデータで、
オレンジ色の●が、今回確認の堀?の位置である。
      右図は地理院地形図に、位置関係を落としたもので、
赤線が、レポート前段で説明した堀切状の遺構。
      
青線が、今回確認した堀?
      
      これを見ると、大平山の頂上、富士浅間神社を中心に、東西で対象に堀?が存在する事が分かる。

      と、なると怪しくなってきたのが、神社から北に延びる尾根。
      しかし、残念ながら、管理人はこの尾根を歩いていない。(
この辺も怪しい?のエリア)
      今後も含め、確認が必要になってくると思う。 
      
      
                        






   

 ちなみに、発見した堀切横はハイキングコースや、電波塔の整備道になっている。

 このためかどうかは分からないが、両袖の縦堀は確認できなかった。






















             果たして
     大平山は、
          本当に城と言って
               良いのだろうか?

 








                       (疑問は続く)








光明寺城sk位置(マピオンへのリンク)


 copyright masaki 2006
【解説】

光明寺境内に城跡は残る。
細井駿河守光明の築城という。

寺の方にお話を伺うことができた。
主郭北の堀は、水が湧き、深い水堀となっていた。
家中小学校の子供達が、飛び込みできるほどの深さで、
水も澄み、魚も多数住んでいたという。
思川の護岸工事により、水位が下がり埋め立てたという。

また、家中小の校庭西端に、せせらぎのある公園が設けられているが、
ここもかつての堀の跡という。
こうなると、かなりの規模の平城で会ったことが伺える。

現地をくまなく踏査できなかったが、
まだ遺構が部分部分残っているかもしれない。
【写真】 写真番号は縄張り図中の番号と一致しています
@光明寺入り口

堀と、おそらく土橋が消失している。

寺正面の参道に沿っても堀があり、水が流れていたそうだ。
境内には大きなイチョウが・・・
A家中小に沿う西側の堀
B主郭北の堀
C櫓台を望む

かつて、この道路は堀であり、満面の水を湛えていたという
D外側の曲輪の壁
空堀は消失









藤沢城・鍋山位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki 
【解説】

この城址は小曾戸氏の城であると考えられる。
小曾戸氏と後北条は、相互のやり取りの文書が残っており、
本城の規則的な縄張りには、後北条氏の手が加えられている可能性もある。








不魔城(主郭部)sk・鍋山位置(マピオンへのリンク


            

第1回 1997年 


反対側の尾根にも遺構が・・・・

copyright.2005 masaki
【解説】
主郭東面の登城路から、最後は大きな縦堀を木橋を渡らせる。
この時、主郭から、上面攻撃を可能にしている構造は、憎い!(上図)
不魔城南対岸の尾根上にも、城郭遺構がある。(下図)


        

第2回 2008年 


copyright 2009 masaki
◆マウスをのせよう

城を見はじめて、早35年以上。
当城には1997年に一度訪れている。(それが第1回)

2008年12月の中城研例会で、当城を再訪問することになり、
10年以上たった今、改めて図面の書き直しを行う事となった。

前の図面と今回の図面。
全く違うものとなった。

見落としや、曲輪の輪郭の差。
解釈の差。
図面の迫力。
どれをとっても今のほうが素晴らしい(・・・と思う)

少なくとも描写の差は歴然。
やはり、縄張図は事実に基づいた写生画である。
作品が、年を重ねるごとにうまくなる。
それに近しいものがあるのでは。。。。


私の図面書きも、まだまだだ。



【解説1】





 不魔城の入り口には、このような道標が立つ。
 しかし駐車場は無い。













 そこで我々は、近くの空き地に
 車を置かせていただくことになる。
 もちろん声掛けし、お断りを入れる。










 さて、登城路は狭く、車の進入は不可能。
 写真電信柱下の道を歩く。

 写真右手の小高い部分が城跡である。











 道標にしたがって歩いていくと、
 最西端の曲輪にたどり着く。

 城址碑と秋葉神社が鎮座する。
 神社といっても、祠程度の小さなものだ。










 曲輪の壁は、見事なまでにしっかりしている。

 写真は北の尾根続きの曲輪から、
 主郭を望んだところ。











                

           この城の見どころは何と言っても,上の写真。
          主郭直下の橋台。
          馬出し構造となる。
          縦堀が走り、向こう側に橋が架けられていた。




               それにしても・・・

          研究会の還暦近いおじ様たちは、
          この縦堀を平気で登り降りする。

          不魔城の対岸の尾根には、もう一つの城が残るが、
          おじ様たちはこちらも攻める、攻める。

          城の探求に、きわめてどん欲であり、鼻息が荒い。

          これが中城研のパワーであり、すごい所。
              
          私にはとても真似できない。。。。。。。


                 
                 
                                  ◆不魔城を彩色。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【解説2】

まず、当城の最大の見所は、このルートにある。

それを、紫色のラインで示した。


敵兵は縦堀で挟まれた、閉塞した空間を登らされる。

これは登城する敵を、山の斜面に横移動させないようするもの。

そして道を登りつめた最後は尻つぼみとし、

主郭からの攻撃で一網打尽とする構造である。

たしか山梨の白山城にも似た構造があった。

       



さて、登り詰めて尻つぼみとなったその先は、

角の形をした馬出しである。

この馬出しには、対岸に木橋が掛かる。

この橋は、いつでも壊せる構造となっていた。


橋を渡り、さらに進むと主郭への登城口だ。

10年前は、この道を見落としていた。

今回の発見だ。

上がった先の主郭先端は、枡形虎口となっていたようだ。
                    
これも、新発見。

写真はその橋の掛かっている部分のところ。



                              (以上、不摩城)