C→
←B
A→
@↓

さくら市(氏家・喜連川)  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。 
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

勝山城(+3D) 御前城sk 鷲宿城 『葛城城』 葛城龍害城sk 松田城sk 龍害城sk
 喜連川城(写真のみ)            





勝山城
電子国土・位置へのリンク

 
copyright.2005 masaki
【解説】
かつては、かなりの規模の城郭であった。
結婚式場が主郭にあった際、かなり破壊
されたと思われる。


copyright.2005 masaki
◆主郭3D図
      

      




電子国土1948年・・堀の状況がよくわかる









御前城sk電子国土・位置へのリンク


↑現状図
ひどい図面だが、規模はある程度大きかったと考えられる。

↑宝永6年(1709)
滝沢五良 氏蔵


↑元文3年(1738)塩ノ谷郷土史館蔵
【解説】↑

氏家小学校の校庭の片隅に、土塁が残るのみである。
かつての姿を残す絵図がある。
【解説】↑

町屋の中に、かつての御前城の姿がうかがえる。
横矢の効いた張り出しが特徴的。





鷲宿城位置(マピオンへのリンク)電子国土・位置へのリンク


copyright.2005 masaki
【解説】

破壊が進んでいる。
図では、松岩寺境内が主郭のように見えるが、実は松岩寺より外部の方が地形が高い。
という事は、この遺構は縁辺部の物となるのか・・・・・?
鷲宿城の主郭は、松岩寺の外にあったのだろうか???

◆鷲宿城土塁 ・空堀







『葛城城』 電子国土・位置へのリンク

【解説】
葛城城は、大字加藤内にあって、塩谷惟延の築城とされる。
遺構は皆無である。
本ページのこの写真は、当地に鎮座するお地蔵様であるが、
葛城城の説明はあるものの、ここ自体が城であったかどうかはわからない。
 






葛城龍害城sk電子国土・位置へのリンク

【解説】

葛城龍害城は2008年発刊の喜連川町史に紹介されている。

町史では曲輪がきっちり区画された、複郭構造で描かれているが、
かなり曲輪の加工が甘く、明確ではないと判断した。
主郭はゆっくりと東に向かう緩斜面上の一面と言うことになる。

つまり、単郭の曲輪を主要な尾根続きのみ堀切った、極めてシンプルな構造の城と判断した。


 
copyright2009.masaki
図面は上方が北になります
【写真と解説】
        葛城龍害城は、『葛城城』を東に望む、標高170mほどの山上に築かれている。
                       ◆龍害を望む
            
 さっそく次に、遺構を写真で少し紹介しよう
                    


 下表のの各文字を触って頂きたい。
 写真が表示されるはずだ。
 番号が撮影場所。
 矢印は撮影方向を示す。
 (注・パソコンの表示の仕方によっては、
    お見苦しくなるかもしれない。ご容赦願う)

     
@ 堀切。
 どうもこの堀は主郭前面に回っていたようだ。
 今は最北端のみ顕著である

A @の細尾根から葛城城を望む
B 主郭曲輪内部。
 緩斜面で、加工が甘い

C 堀切
 細い尾根を断ち切っていたようだが、
 かなり埋もれている




                  龍害城は、麓の葛城城への展望が恐ろしいほど利くため、
           両城が互いに関係を持っていたことは間違いない。


                         
  
(葛城城おわり)
◆わかりにくい城へのアプローチ


 さて、城へのアプローチであるが、
              管理人は山の東直下に車を置いた。                 





           登り道を探すと、ちょうど植林用の道を発見したので取りついてみた。
                   しかし、この道は山に登らない。
                    
                            
                結局、激しい斜面の直登となってしまった。
                    おかげで体が痛い。







松田城sk電子国土・位置へのリンク


09/03/28土曜日。
現在am9:00。息子との約束の時間はpm12:30.
城への往復含めると2時間ほどあるな・・・・・

そう思った私は、時間内に終わりそうな城をチョイス。
早速出かけることにした。

向かった先は さくら市 松田城。
喜連川城に程近い、舌状台地上にある。

図面を描いていると、城域が思いのほか広い。
ん!?・・・・インスピレーションが沸いてきた。

           「この城、なんとなくどこかの城に似ている
・・・・・・」

  
【解説】

喜連川町史によれば、
松田城は川崎城主・塩谷氏が大蔵ヶ崎城(喜連川城)築城の際、
臨時の住居として築いたという記録があるが、確証はないとしている。

戦国時代、川崎城主塩谷氏と喜連川塩谷氏は同族でありながら、
主(あるじ)を川崎塩谷氏は宇都宮氏、。喜連川方は那須氏にした事から、いわば敵対関係にあった。
だから松田城を「川崎城主塩谷氏が築いた」というのは、筆者としては信じがたい。


さて、松田城は単郭の城であり、南北を堀切で区画している。
主郭内部の加工は甘く、自然地形のままであるが、
面積は意外に広く、東西は最長で40m、南北は150mほどある。
主郭側面には、おそらく「空堀」であったろう腰曲輪が付随する。
特に東面の腰曲輪は全面空堀であった可能性が高い。


自然地形の主郭に、空堀であろう腰曲輪が付随する・・・・・どこかで見たような・・・


         そうだ!矢板市の滝原台大溝に似ている感じがするんだ!
                  

 ◆松田城彩色図       
(※)土塁は黄色。空堀は緑色 は推定を示す。図中の矢印は、矢印方向への傾斜を示す。    
 【解説】
                                             

◆松田城全景

のどかな田園地帯に独立丘のようにも見える。







 




         



◆最南部堀切

写真では分かりづらいだろうが、かなり埋まった感のする
堀切である。





 ◆主郭西の腰曲輪。
  今は曲輪のように見えるが、空堀であった可能性がある。





 
 
 ◆主郭東の空堀
 かなり埋まっているが、空堀である。
 堀の手前に、堀留?又は
 坂虎口の様な土橋が残る。
    




                                  
◆東腰曲輪

 今は腰曲輪状であるが、
 上記との繋がりから言って、おそらく空堀だったろう。





 


 ◆主郭北堀切土塁

 土塁は高さ1,5mほどであろうか。
 手前には緑色で示したように、
 浅くて広い7mほどの空堀が存在する。












 

◆主郭北堀切り・土塁

 上記の堀切と土塁を望む。
 堀は埋没がかなり激しい











松田城からみた喜連川城の眺め。目と鼻の先であるため、当城との主従関係が有ったと考えるのは穏当であろう。
        
                 ◆タワーが建つのが喜連川城

【考察】


筆者はかつて、矢板市の城をいくつか回った時に、塩谷氏の居城川崎城と、滝原台大溝や岡城の関係を説いたことがあった。
川崎城を”主”とし、滝原台を”従”とする関係である。

戦国時代、川崎・塩谷氏は、宇都宮氏に属していたが、一方喜連川・塩谷氏は那須氏に属しており、両氏は敵対関係にあった。

そこで滝原台大溝は川崎・塩谷氏が、南方にいる喜連川・塩谷氏の北上に備え、作ったものだと想定した。
主城では山により視界の利かない南方向の監視を滝原台大溝に任せてたと考えたのである。


この関係が喜連川城にも言えるのでは?


同じく喜連川・塩谷氏も、川崎・塩谷氏と宇都宮氏連合の侵攻が怖かった。
喜連川城単独では内川沿いと松田城から北西に伸びる谷筋の侵攻ルートを防ぎきれない。
このためこの谷筋を監視できるよう松田城を築いたのではなかろうか。。。。

この松田城から北西に伸びる谷は、喜連川町史によると(赤点線で示した部分)は佐久山に通じる旧街道であったそうだ。
これは主氏との連絡ルートであり、川崎方面からの侵攻の弱点ともなりうる。

また、北の堀切幅が広いこと。
空堀が北方面に集中していることなどから見ても、北を意識した作りとなっているのは明らかだろう。

私は、この城を見学しながら、滝原台大溝とこの松田城のイメージが何となく似ていると感じた。
主城のサポートとして、極めて簡略的に作られたイメージと、主城との従属関係からくる ”監視するためだけの城” というコンセプトが、”異形の城”として、私に”似ている”と感じさせたのだろう。

ただ、喜連川町史では、対上杉景勝「北の関が原」に備え、徳川軍が喜連川町内に施設を構えたとしている。
松田城も北に備えた設計であることを考慮すると、徳川軍が作った施設とも考えられる。
しかし、いかようなものだろうか?
ちょっと、飛躍しすぎかな?

                         (松田城・完)
◆城へのアプローチ

当城の位置は、ここである。位置(マピオンへのリンク)

舌状台地の尾根先端に、下写真のような小スペースがあるので、車を置かせていただいた。
写真後方の記念碑裏に踏み跡程度の道がある。
アプローチとしては妥当な選択肢なのであるが、残念なことに途中で消えてしまう。

結局、主郭までの明確な道はないので、どこから登っても一緒である。

ちなみに私は、尾根筋は通らずに、主郭横の東斜面を直登した。
しかも、2回も・・理由は下記手記にて。























◆手記

この城ではえらい目にあった。
いつかはやると思ったが、メガネが枝に引っかかり、すっ飛んだ。

       
メガネを探すときは、めがねがないと探せない。
       でも、メガネが無い。。。。(何を言ってるんだか・・)


       ハッキリ言って相当慌てた。


メガネがなければ車にも乗れないし、家にも帰れない。

”どうしよう!!☆””

手持ちのカメラの液晶画面を使ったり、携帯のカメラ画面を使ったり。。。。
ズームにすれば、裸眼で確認できるかも・・・・
コンタクトレンズを探すように、林の中を這いずり回る。
だけど、全然見つからない。


       そのとき、スペアの古い眼鏡が車にある事を思い出した。

       ” 取りに行くしかないな・・・ "

       そう思った私は
       おそらく0.1も無い裸眼を使い、山を転びながら下りた。
       これも危ない行為だったが、もう、どうしようも無い。


車に着くと古い眼鏡を取り出した。
「よし!見え方はいまいちだが、これでメガネが探せる!もう一度、山登りだ。」


       私は古い眼鏡をつけ、再び山へむかった。


    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
      「あった!こんなところに・・・」

      飛んだメガネは、地面に落ちていなかった。
      枝に引っかかっていたのだ。
      これでは、地面を這っても見つ
からないわけだ。
                      


一日に2度も上り下りした松田城。
もう、くたくただ。
振り返れば、1時間ほど悪戦苦闘していたことになる。



松田城。

忘れられない一城となった。







F龍崖城sk  電子国土・位置へのリンク


久々の有休。
子どもたちが春休み中のため、今日1日家に居ることになるのかと思っていたが、
友達と遊びに行くということで、pm1時〜4時までの3時間、自分の時間ができた。
で、手ごろなところということで、またまた喜連川に。
目指すは、龍崖城。

低い山の頂にあったのは、横矢の効いた所謂 ”陣地” であった。
この堀の方向や、立地から『那須氏の城』であることは間違いなさそうだ




◆彩色図
 【写真】携帯の写真なので、少々ボケ気味ですがご容赦ください。


堀切を東から西に望む。しっかりした堀切であるが、深さはさほどない

 


堀切の端末は西のみ縦堀状になる




堀を西から東方向に望む。ここは横堀である。




主郭内部である。写真では分かりづらいだろうが、低い土塁が取り巻く



 

主郭の横矢の張り出しを望む





 
主郭の横矢を遠方から望む
町史では積極的に表現されていないが、
管理人は堀に張り出した横矢掛けと判断し、
図面では分かりやすいように、少々オーバー目に表現してある。
また、この部分だけ、低い土塁がないことから
矢倉が置かれていた可能性がある。






北の堀を、望む。。ちょっとボケてしまった。
このビューポイントの北側に切り岸が一段あるようだが、見落としてしまった。





主郭堀を見下ろす

 
 
 
【解説】
喜連川町史によれば、龍崖城は平成12年(2000年)にその存在が初めて確認された。
近くに住む蛭田家には、当城が那須氏の城であったとの伝承があるという。
                           

龍崖城は、主郭3方を堀で囲み、その南に小郭を付随する、極めてシンプルな城である。
シンプルといっても、横矢を中央に設け、
シンプルさの中にも、キラリと光った戦闘的な一面を見せる。

西の斜面は、まったくの未加工の自然地形で、
主郭には、どこからでも(?)入れる状態になっている。
だから、明確な虎口遺構は地表面観察では見つけられない。



縄張からみると、この城が東方面、すなわち川崎・塩谷氏方面に向け作られたのは明白であり、
伝承を含め、川崎・塩谷氏と敵対する那須氏が築城主体である事は、ほぼ間違いなさそうだ。

また、このあたりは、那須氏と塩谷氏の抗争が繰り返された地と知られていることや、
簡素な城の作り方から、ある戦闘時に陣地として、一時的に構えられた可能性も示唆できる。




さて、今一度、右図を御覧頂きたい。
矢板市の項で紹介した、塩谷氏と那須氏の領地の境界推定図である。
これに、前段の松田城、そして龍崖城を加えた。


管理人は、拙稿・中世城郭研究第22号にて、
天正13年頃の那須氏と塩谷氏(宇都宮氏)の境界を右図のように想定した。
江川より北部を那須氏領と考えたのである。

龍崖城は、江川に沿った部分に築城されている。
それと同時に、すでに述べたように、縄張からは那須氏のものと考えられる。

これらから、管理人の領地に対する想定は、まんざら的外れでもないことが確認できる。

また、地図を御覧になれば、龍崖城が西=川崎城・塩谷氏方面を意識している事は良く読み取れると思う。




さて、龍崖城より南側。
<江川南の丘陵地帯>と書かれている丘陵地帯には、実は城が少ない。

その理由として、当丘陵地帯が那須氏と川崎・塩谷氏=宇都宮氏の抗争の
  ”緩衝地帯だから”
と考えられる。

龍崖城の那須氏と喜連川・塩谷氏は同盟を結んでいることから、龍崖城と松田城との間を結ぶ未発見の城が存在する可能性は十分ありえるだろう。

なにせ、龍崖城は平成12年(2000年)に、初めてその存在が確認されたのだから・・・・・・
             


         (龍崖城完)

喜連川城(写真掲載のみ)位置(マピオンへのリンク)

 崩落と復旧 2012年9月15日

【解説】
 2011の震災のあと、大雨の影響を受け、崖崩れをおこした喜連川城。
  
 いまだに、全山立ち入り禁止。
 
 工事は急ピッチですすめられているようだが、ご覧のとおり。

 当分、時間がかかりそうだ。

 
いやぁ、すごい!!

下写真のみ、2012年6月2日


以下から9月15日撮影


土砂に潰された家が、凄まじさを物語る




中世の遺構とは関係ないが、「御用堀」(城下の用水路)を見てきた。
ちょっと、近世の城下町っぽい風情が漂っている。