宇都宮市(旧河内町) 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 

『下ヶ橋城』 逆面城sk 岡本刑部遺跡sk 岡本城  龍開山城

下ヶ橋城』(文と写真) 電子国土・位置へのリンク

【解説】
「栃木県の中世城館」によれば、”下ヶ橋字御城”に、この城があるという。

”宅地・水田になっているが、館の東面に堀と土塁の痕跡が残っている”
というが、どうもはっきりしない。

”(館の)南に養膳寺廃寺がある”
とも書いてある。

このお寺は、現在公民館の敷地と成っている。
つまり、城はこの寺跡の北にある事になる。

しかし、現地をいろいろと回ってみたものの、位置がわからずに困り果てていた。



数年前、このあたりに農道が整備された。
この農道を渡る橋の名前を見て愕然とした。

「御城橋」

しかし、ここは田んぼの真ん中。
城の遺構の”い”の字もない。

この城は戦国末期 下ヶ橋豊後守の城という。
下ヶ橋城は一体どこにあるのだろうか・・・・???



◆御城橋道標




逆面城sk  電子国土・位置へのリンク
図面が古すぎて、少々難ありと思います。


調査年月日 1987,2,14
copyright.2005 masaki

◆山麓の居館跡

copyright.2005 masaki
【解説】

やっと、自分の町のページができた。
でも、掲載図面は今を去ることウン十年前の作。
何しろ自信がない。
昔はきのこ畑になっていた。
見学には地主さんの許可を得よう。
当城東斜面は、カタクリの花が一面に咲く事で有名。

◆北方から逆井城を望む






岡本刑部遺跡sk 電子国土・位置へのリンク


copyright 2005.masaki
【解説】
岡本城の北、水田の中にこの遺跡は存在する。
城主は、岡本信濃海守富高と言われる。

現在はその大半が水田と化し、
堀と土塁の残欠と思われる物が存在するのみである。

土塁上の稲荷は『お城稲荷』といわれている。
左上◆刑部遠望

上◆城稲荷

左◆僅かに残る土塁・堀








岡本城位置(マピオンへのリンク)

【解説・・第1回 もっとも近い、岡本城

実は、管理人の家から、この城は一番近い。
あまりにも近すぎて、精査していないというのが実態である。

先日、この岡本城を息子と訪れた。
その案内看板に、
『堀が5重説と3重説がある』
と、非常に興味深い記述があった。
これには、地籍調査が有効と考えられる。
近い時期に、深堀調査をかけてみたい。

現在、明瞭に残るのは主郭のみである。
台地縁辺部に、昔の空堀の残欠があり、往時の姿が若干拝める。
しかし、台地上は畑と化しているため、堀がどのような形で回っていたかはわからない。

これが、5重説と3重説を生み出しているのであろう。

縄張り図は、まだ無い。
近々、公開したい。

















◆岡本城の看板・・堀の5重説と3重説があるという









◆岡本城遠望        ◆城内部・・主郭を除き、全面畑と民家である  









◆主郭虎口          ◆主郭堀・・高いところでは7mほどあろうか
【解説・・第2回 h18年5月
地元民なので、ちょっと真剣に、岡本城の解析をはじめてみました。
@岡本城地籍・地目図

岡本城周辺の地籍調査を行った。
河内町役場税務課の方にご協力いただき、明治の地籍図を書庫から引っ張り出していただいた。

地租改正時の巨大な地籍図。
大汗かきながら、役場内で職員の方に対応していただき、本当にありがとうございました。
そして周辺の地籍図をも組み合わせて、編集し、データ化し完成したものが右の図である。
作るのに1週間かかった。苦労したぁ〜。

の部分は地籍図上『土手』を示す。
むむむっ!!
怪しげな土手が、東西に走っているではないか

ピンクの点線は字境である。
城周辺呼称は『字城内』。
つまり、ピンクの破線内が岡本城城域を継承していると考えられる。

ちなみには道、水色は水路、川である。

copyright2007 masaki
A山林・原野に着色
次に、”地目”に注目してみた。
堀や、土塁の部分は、平野部の場合、開墾に手間がかかるので、原野(荒地)や山林のままになることが多い。
薄茶色で着色してみた。
すると・・・・

むむむっつ!!

主郭の横矢(折れ)が良くわかる。











copyright2007 masaki
B東西に走る短冊状の地割り

次に地割の形状に着目してみた。
土塁や、堀は形状の関係から細長い形状の”地割り”になることが多い。
そこで、東西に走る短冊状の地割にこげ茶で着色してみた。

おおっつ!!!


あとは、現状遺構を重ねてみれば、岡本城の旧状が見えてくるぞい!!






copyright2007 masaki
解説・・第3回 h18年7月
地元民なので、図書館を訪ねてみました

河内町誌の図
「河内町誌」を眺めてみると、右のような図が載っていた。

河内町は、かつていくつかの村が合併し、町となった。
合併前の、「古里村郷土史」には、『五重堀となっている』とあるそうだ。
右図は岡本憲氏という方が、古老の話を聞きながら、5重の堀説をもとに、まとめたものだそうだ。

それに対し、高橋四郎元河内村長が五重説に対する異論を唱えている。
五の堀はない、三の堀までだ!!

根拠は、承応2年(1653年)の『中岡本御縄帳』にある。
この史料によると、この時にすでに、岡本城は畑となっており、耕作が営まれていた様子が書かれているようだ。

耕作が行われていた場所としては

『本城之内・城の内ほり・二の丸・三の丸・三の丸堀・惣くるわ』
が耕作されている。

つまり三の丸堀以外の他の堀の記載が無い。
これが三重説の根拠らしい。
ここで言う三の丸堀は、右の図の五の堀に当たるそうだ。

しかし、一般的に堀は畑にはなりにくい。
開拓、開墾が必要になるからだ。
耕作地名記載が無いから”堀が無い”とするのは無理があるような気がするが、話だけ聞いていると非常に面白い。
解説】・・第4回 H18年11月13日
岡本
平成18年11月13日、岡本城の概略図が書けた。

地籍図とあわせてみた感想は・・・

問題は、
神社へあがる階段の頂点。
ここに堀状遺構がある。
しかしここがどうしても、地籍図と繋がりがうまくいかない。

B1についても、地籍図からは、ここに堀があったと推定されるものの、崖淵になんの痕跡も無い。
むしろB1付近は、現状から判断すると、虎口のように使われていたと考えられる。
地元の方に伺うと、遺構通り、かつてここから崖下に下る道があったという。
ここも、いまいち分からない。

B2の堀。ここは間違いなく地籍図どおり、堀が存在した。崖に堀の痕跡が残る。

は、現在道路となっており、堀状であるが、地籍図から、ここは堀ではない。

は、地籍図上、堀の跡と考えられる。現在岡本北小学校の学童保育の施設の横にあり、崖に堀の痕跡が残っていると考えられる。
しかし、不審者と間違えられそうなので、まだ確かめていない。

は地籍図どおり、堀端末の痕跡もあり、堀があったと考えてよい。
問題は、その先がAにつながっていたのか?それともB1なのかである。

は、ここから南に向かって壁が長々と残る。
おそらくこれに沿って、堀が平行していたと考えられる。
現在でも、その段差は、結構跡をたどることができる

あとは、町の地形図に乗せて清書だ。
これがまた、厄介
解説】・・第5回 H19年1月6日
清書にうつる前に、今までの情報をもとに推定を試みた。
単純に考えると、赤で示したのが"堀"となる。

こうすると分からないのが、B1に現状も残る土塁と、地籍図上にあるB1付近のカギの手状の土手のつながり。
何かこのあたりには一ひねりあるように感じてならない。

主郭北にある神社の入口に、堀の残欠がある。
これは、遺構からすれば、堀であることは確実なのだが、
実は地籍図には旨く現れていない。

B1の前は、遺構から見ても、堀は無さそうだし、地籍図から見ても、堀の可能性は少なそうだ。
となると、B1付近が、どうなっていたか、よく分からない。

しかし、こうして眺めてみると飛山城に似ている。

もう一度、地籍図でも眺めてみるか・・・・。

岡本城・・・・・結構手ごわい。
【解説】・・第6回 H20年1月7日
本日、とうとう岡本北小学校、校庭西端にある堀の残欠を確認。上図部。

子供たちと一緒に、写真を撮った。
上端部から、下に向かって縦堀が残る。

やっぱりね。
これで、考えたとおり岡本北小学校内に岡本城の堀があったのは、決定的になった。
 
 
【解説】・・第7回 岡本城発掘調査 2009.08.22

岡本城が発掘調査された。
発掘理由は分からないが、来年も続く事業らしい。

8月22日に現地発掘調査が行われた。
残念ながら管理人は訪ねられなかったが、その情報を記す.
今回、下図のT5、T6で堀が確認された。

第5回でも分からなかった 【第5回】B1部分の堀のつながりがほぼ読めた事になる。
岡本城は【第3回】の推定図が、ほぼ旧状をとらえている事がハッキリした。
岡本城は5重の堀があった事になる。

        

発掘調査直後の城跡を訪れてみたので、その状況をお伝えしよう。(下図)


【解説】・・第8回  2009.12.25
【写真と解説】

 最初に紹介すべきだったが
 岡本城には案内板がちゃんとある














 第7回で紹介した発掘調査で、
 主郭の土橋に通じるスロープ状のルートが
 発見された
 



 主郭土橋

 
 




 主郭虎口。
 枡形状である

 




 2の郭堀残欠
 




 現在、駐車場が拡張され、不明確に・・。
 かつて残欠はもっと明瞭であった
 




 良く観察すると、
 字境に沿って段差が見受けられる。
 ここには最外郭の堀が巡っていたと
 私は考えている。
 
【解説】・・第9回  2010,01,04

 さて、地籍図と管理人の図面を使って在りし日の岡本城を、想像してみよう。

   

1■まずはじめに、、、、






まず、地籍図の@AB
台地を特徴的に細く横に伸びる地籍は、堀・土塁の名残とみて、ほぼ間違いない。


の部分については、『横矢』の跡と想像できる。














                  
                     

 





これを管理人の縄張図に落とすと、以下のようになる。
@は、今でも畑が堀の名残をとどめる。ただ堀の東端末は、いまひとつ釈然としない。
Aは現在の東端墓地に残る堀の残欠に続く。
ほぼ一直線か、途中1箇所クランクのある堀と見て間違いなかろう。
Bの堀の端末は、岡本北小学校の崖に確認できた縦堀に続く。
台地を大きく横切る堀が想像できる。




















    

2■次に発掘調査結果を、、、、

  
 ◆平成21年の発掘調査結果
      
 


平成21年の発掘調査で、出てきた堀。
図のCにあたる。
この結果でCの堀は、東端の稲荷神社の堀残欠まで続く事が、ほぼ確実になった。















現在岡本城には,オレンジ色の四角の吹き出しで示した南北に走る段差が確認できる。
私も、この段差は築城当時からの残存と思っていた。

しかしながら、今回の発掘調査結果で、畑の造作でできたものとわかってきた。
つまり、城の遺構とは関係がなさそうである。











      

3■さらに、字境界を考えてまとめると、、、、


さて、地籍図上での”字城内”と”字西町”。

この境界を走る字境は、@ABの堀の端末とほぼ一致する事が分かる。
このことから、飛山城のように岡本城にも、大きく外郭を囲う堀が存在していたのではなかろうか?
   
 ◆飛山城・・矢印が外郭堀



それを加味すると、左図Dのようになる。

結果、私の復元の結論は、岡本城には、主郭の堀を含め5重の堀が存在する。
第3回で紹介した岡本憲氏という方が、古老の話を聞いて説いた、5重の堀説とほぼ一致する事になる。
さらに、外郭線としての堀Dの存在を指摘したい。
また、堀@とA、AとB間の短冊状の地割りは、屋敷地となっていたことが想像できる。

課題としては@の右手、下図の
赤丸部分の堀のつながりがハッキリしない事である。
ここには、明確な土塁が残っており、虎口であった可能性も指摘できる。
ただ、現段階の資料だけでは、なんとも判断しがたい。
今後の発掘に期待したいと思う。

      
            


【解説】・・第10回  2010,09,19

岡本城の発掘調査が行われた。(実は現地説明会前日まで全然知らなかったのだが・・)



 今回の発掘成果のメインは、主郭虎口の蔀土塁部分。
 土塁に石が貼り付いているということで、話題となった。
 説明では、主郭内部からの装飾のためであるということだ。
 私見では、装飾というより、
 なにか土木建築上の理由ではないか?と思うのだが・・・

     (左図縄張り図
●部が下写真)
  



        


また、第9回に続き、図のCの堀の続きが確認された。(下図 
C部2箇所)
これで、Cの堀の存在が確実なものになった。

               

         

【解説】・・第11回  2010,10,01

9月におこなった現地説明会。
それから2週間ほど過ぎた。

         その後はどうなってるんだろうなぁ? 

と思い、会社帰りに岡本城を覗きに行った。


土塁に貼られた石(?)は、そのままの状態。
主郭内部の発掘調査はさらにすすんで、柱穴のようなものが出てきたという。

発掘をしている方にお伺いしたところ、あと2,3日で調査は終了という。

ちなみに、「なぜ、急に岡本城を掘ることになったのか?」と尋ねたところ、
宇都宮市と河内町の合併によって、調査の機会ができたのだという・・・・。

報告書とか、出るのかな??


         

                        暗くてピントが合わない・・・


 解説】・・第12回  2012,8,31
 

最近、管理人は自転車通勤を始め.た。

その通勤途中で気づいた事がある。

下図縄張り図の "ここ" と書いてある場所で、民家の外壁工事が始まっていた。

                  

    その写真が以下であり、写真の撮影方向を矢印で示し、写真で見えている断面場所を記述した。

   よく見ると、関東ローム層の赤土のラインが見て取れる。

   その流れを見てみると・・・・・・(写真にカーソルを乗せてみよう)


                    


   手前からロームが下って行き、一旦途絶え、再びその先で復活する。

   これは、何を意味するのか?

   そう・・・つまり、堀の跡・・?そんな風に見えないだろうか?


   これは私のDの堀の存在を裏付けるものになるのか?????
   



        
                                       Dが外郭と想像している堀


  




龍開山城位置(マピオンへのリンク)

 こんな所に小さな名城  2012冬攻城第3陣  2012/12./01

   
  全く知らなかった。

 本ホームページのお客様、”くりや”さんからの情報で
 訪ねてみたこの城。

 こんな所に、隠れた城があったなんて!
 しかも、こんな近くに!





 

この城は、主郭下まで車が寄せられる。


私は、少し離れるが、城の近くに『サギ草園』があるので、
ここに車を留めた。
ここにはトイレもあるし、綺麗な池もある。
(※追記 この公園は2014年くらいに廃園になりました)


実はココ。
筆者第2の趣味の『トンボ採集』で良く訪れる場所なのだ。
夏には、ルリボシヤンマとオニヤンマが、池の上を乱舞する。


城のある琴平神社の存在は、昔から気づいていた。
いつか行ってみようとは思っていたものの、
まさか、城だったとは。。。。





【解説】

   さて、早速城跡に行って、遺構を見てみよう。


              


   駐車場から5分ほど狭い舗装道路を登ると、下の景色が見えてくる。
   写真右手奥に神社の鳥居が見えてくる。 
       
     
 
















            
              主郭に鎮座する琴平神社である。

             


 辺鄙なところにあるが、
 とりあえず、人の手入れは入っているようだ。




 この神社裏に、当地を城と決定づける堀がある。






 神社裏に、堀と、堀を渡る土橋を発見。

 でも、堀の反対側にも神社にまつわる施設があり、
 土橋は後世の造作の可能性が極めて高い。


 










 神社の土橋から、堀を南方向に臨む。
 
 この先で、堀はL字に曲がっていく。


 

 











   

 L字に曲がった先は、12〜3m程行くと
 残念ながら土取で破壊されている。


 写真の先で、堀は断絶している。



   


 
堀が断絶しているのは、紛れもなく造成によるものである。
誰もが想像できるが、堀はいずれかの形で主郭を回っていたに違いない。

堀が南面を回っていたのは、
こちら方面が緩い傾斜地だからだろう。
場合によっては、主郭南に、もう一郭あったかもしれない。

現在の主郭南側、東面の壁は、往時からの物のように見えるが、
造成の際に掻き取られている可能性もある。

ただ、ここは神仏の鎮座する神聖な場所。
堀だけ剥ぎ取られた可能性の方が高いか?

まあ、今となっては全くわからないが・・・・。

◆龍開山復元想像図
 

 築城者であるが、宇都宮氏系であろう。
 東の鬼怒川方面からの敵の侵入を監視する役割のように思える。
 麓の山田川を自然の堀に見たてた城である。
 ここより北方、4kmにある宇都宮氏家臣 逆面氏との関係も考えられるが、ちょっと遠い気もする。

          

               
 (龍開山城 コンプリート)