Sein und Schein


という例文からスタートする。この文の定形はaussehen「…のように見える」「…の様子である」であるから、その語感を尊重して日本語訳すれば、「状況は我たちにとって有利であるように見える」となるが、日本語としては「状況は我々に有利だ」と断定的に訳すほうがよい。ドイツ語では事実刻々と移り変わっていく状況の表現にはよくaussehenを用いる。日本語では通常このような場合に「…のように見える」と訳す必要はない。 他の例――

 常識的に考えればaussehenは「外見」「仮象」を表し、seinは「本質」を表現する。もっと正確に言えば、aussehen はあることを物事の「外見・仮象として」、seinは「本質として」提示する。「状況」はドイツ語でdie Lage, die Sache, die Dinge, die Verhaeltnisse(後ろの2つは複数)などというが、最後のdie Verhaeltnisseは「物事の諸関係」という意味でもある。状況とは事物の相関関係そのものであるから、状況には本質というものがないとドイツ人は考えている。それで状況そのものの表現には、seinよりもむしろ好んでaussehenが用いられるのである(もっともこのことは状況をseinで表現できないということを意味するわけではない)。

 aussehenは「外見」と「仮象」を表現すると言ったが、この2つの意味は明確に区別しておく必要がある。前者は「外見」「様子」だけを問題にし(「…の様子だ」)、「本質」に関しては態度保留であるのに対し、後者は「外見」と「本質」が乖離していることをはっきり意識している(「まるで…みたいだ」)。

  1. Was hast du? Du siehst ja blass aus!
    「どうしたの、顔色が悪いね。」
  2. Sie sieht aus, als ob sie krank waere.
    彼女は(健康なはずなのに)まるで病気みたいな様子だ。

 「…している(である)ようだ」と別の動詞を必要とする場合にはscheinenが用いられることは言うまでもない。

 日本語では、最初に述べたとおり、状況を表現するときには「(状況は)…のように見える」とはあまり言わず、「(状況は)…だ」と断定的に表現することが多い(「…だ」ではなく、「…の様子だ」「…の模様だ」といえばドイツ語のaussehenに接近する)ことから、ドイツ語と日本語では「状況」の解釈が異なっていることがうかがえる。

 ところが一方で、「私は悲しい」Ich bin traurig.といった感情表現では、ドイツ語と日本語で正反対の傾向がみられる。ドイツ語では1人称の主語ichをそのまま2人称duや3人称erに換えて、Du bist traurig.やEr ist traurig.と言うことができるが、日本語では「君は悲しい」「彼は悲しい」とは普通言わない。「彼は悲しがっている」「彼は悲しんでいる」というのが正しい日本語である。しかし逆に「悲しがっている」「悲しんでいる」という表現を1人称の主語と共に用いると、やはり「私は悲しがっている」「私は悲しんでいる」という奇妙な日本語となる。

[注]『新明解国語辞典』(三省堂)は「悲しがる」の「がる」を「@ いかにも…の状態にあるという印象を相手に与えるような動作をしたり、言ったりする。A いかにもそうであるかのようなふりをする。」と説明している。

 このことは何を物語っているか。

 「悲しい」「嬉しい」といった感情は、それを感じている本人だけがその真実性を確認することのできる心の中の主観的事実である。「悲しい」と断定的に述べることができるのは「私」に関してだけである。「私」ではない「あなた」や「彼」に関しては、「悲しそうである」としか言えない――「彼は悲しい」という言い回しを奇妙に感じる日本人の気持ちにはこういう背景がある。つまり2人称と3人称を主語とする心情表現は、厳密に言えば断定不可能であるから、本来「そのように見える」としか表現できないはずであり、日本語はこの考え方を忠実に反映させているのである。

 以上のことを確認した上で、今度はsich zeigenという言い回しに注目してみよう。

 長年外国語をやっていると、一応の意味は理解できても、なんとなく腑に落ちないので、ずっと気になっている言い回しというものがたくさんできる。その言い回しを含む表現にぶつかったとき、その意味は文脈から比較的簡単に類推できるので、問題がないと言えばないのだが、なぜその表現からその意味が生まれるかが分かっていないので、いつまでも消化不良のような感じがずっと残る――といった経験が、誰にもあるであろう。sich zeigenもそういった言い回しの一つである。

 小学館の『独和大辞典』はsich zeigenを

  1. 自分が…であることを実証する、…の態度をとる
  2. 明らかになる、判明する、分かる

の2つに分類している。(b)の用法はドイツ語の再帰語法を知っていれば、容易に理解できる。問題は(a)の用法である。これもsich zeigenが再帰語法であることを考えれば、「自分が…であることを実証する」という訳語は、比較的理解しやすいが、「…の態度をとる」という意味はどこからでてくるのか。そもそもこの(a)の2つの訳語の間には意味的な関連性があまりないように思われるのではないか。

 sich zeigenは直訳すると「自分自身を示す」であり、この場合「示す」とは「(人に見えるように)外に表す」という意味である。つまりsich aussehen lassen「自分を…のように見せる」である。具体的には「言葉や態度で自分の考えや気持ちを皆に分かるようにはっきり示す」ということであり、訳語として「自分が…であることを言葉/態度で表す」「言葉/態度が彼自身…であることを示している」と覚えておけばよい。「言葉」または「態度」で表明するという点がポイントであり、それも実際の例では「態度で示す」よりも、「言葉で示す」ケースのほうが圧倒的に多いように思う。

 sich gebenも、sich zeigenとほとんど同じ意味を表すことができる。ただしsich gebenは「自分で…と称する」「見せかけをつくる」「ふりをする」「装う」といったニュアンスが強く、その行動が「進んで」「わざと」と、意識的・意図的に行われたことを示したい場合に用いられる。

 sich stellenもまた「…のふりをする」「…を装う」の意味で使うことができる(「外見」ではなく「仮装」を表現する)。

 stellenの原義はstehen lassen。stehenは存在表現としては「あるものが具体的な状況のなかにある」という意味であるから、stellenは「あるものを具体的な状況の中におく」ことを表す。このstehenはまた状況そのものの表現にも用いられる。「『状況は…だ』という状況表現はaussehenという動詞を好んで使う」と最初に述べたが、stehenによって状況が表現されることも多い。存在表現としてのsein/stehen/liegenの意味の違いについては、別のエッセイで述べる予定である。