語学エッセイ(34):「生成」(Werden)について


 前回のエッセイ(語学エッセイ 33:「ドイツ語の形容詞の動的性格」)では、日本語の形容詞は基本的に静的、ドイツ語の形容詞は動的な性格をもつ、というお話をしました。そうして、その背後には、日本人の「カテゴリー化思考」があるということを指摘いたしました。

 

1. 日本語はあらゆる存在をカテゴリー的に、静的に把握し、ドイツ語は存在を変化の相としてとらえる。(前回エッセイの引用)

2. 日本語は「…である」という枠組みで現実を捉え、ドイツ語は「…になる」という枠組みで現実を理解している。(前回エッセイの引用)

 

 「…である」は sein、「…になる」は werden ですから、日本語の存在把握は sein 型、ドイツ語の存在把握は werden 型と特徴づけることができるでしょう。

 ある人の行動を判断しようとする場合、日本人であれば、例えば、「Aさんは大胆な性格なので、この場合もはたして ...」という考え方をします。これに対して、ドイツ人は、「Aさんは大胆だ」という先入観念をもつことを避け、Aさんの個々の行為に対して、これは大胆、これは慎重という具合に、個別的に考えようとする傾向が強いのです。

 もちろん、実にさまざまな性格をもつ人々が現にいるという事実に関しては、日本でもドイツでも変わりはないわけですから、結局、どこが違うのかと言えば、ドイツでは、一人の人間の性格なり性向なりが彼の個々の行為の決定的要素であるとは考えない、ということなのです。ですから1回1回の行為が、純粋にそのものとして、判断・評価されるというわけです。

 これも以前すでにお話したことがあるのですが(語学エッセイ 9:「Sein und Schein」)、ドイツ語の aus|sehen「見える」という動詞は、よく sein の代わりとして用いられます。私たちが考えると sein でよさそうなケースが、ドイツ語ではしばしば aus|sehen で表現されるのです。

 

 

 ドイツ語の考え方では、一時的な状態を sein で表現するのはおかしいのです。なぜなら、多少とも持続的な状態でなければ、sein は使えないはずだからです。「顔色」も「その時の状況」も「台風の後の庭」も、すべて変化の過程の中での一時的な状態に過ぎないので、これを sein で表現することははばかられる。そこで aus|sehen「…に見える」「…という様子だ」「(現在)…という状況だ」を用いるわけです(状況を表現する aus|sehen)。

 ところが日本語では、それが持続的な状態であろうと、一時的な仮の状態であろうと、すべて「…だ」「…である」で表現することができます。これが「カテゴリー化」です。ドイツ語の表現が、状況の流動性に敏感に反応するのに対して、日本語は、持続的と一時的とを区別しません。表現として区別しないということは、考えとしても区別していないということです。

 日本語の sein 型思考方法(カテゴリー化思考=状態重視型)と、ドイツ語の werden 型思考方法(変化重視型)の違いが、これでお分かりいただけたでしょうか。

 ところで、私たちはドイツ語の werden を「なる」という訳語ですませてしまっていますが、ドイツ語の werden と日本語の「なる」との間には、やはり微妙ではありますが、決定的な考え方の違いがあるように思われます。

 その違いを一言で言うならば――

 

 日本語の「なる」は「(時とともに)変化する」、ドイツ語の werden は「新たに生じる」「生まれる」というイメージを基本としている。

 

 そう言うと、皆さんの中には、Ich werde Artzt.「私は医者になる」という文では、werden はやはり「変化する」という意味であり、これを「新たに生じる」「生まれる」とは解釈するのは無理ではないか、と思われる方がいるに違いありません。

 その問題は後で検討することとして、最初に werden には「生じる」「生まれる」という意味があるということをしっかり確認しておきましょう(「生まれる・生じるの werden」)。

 

 

 最後の2つは「成長する」「発展する」と解釈することも可能ですが、やはり「生まれる・生じる」というイメージで捉えられていると考えるべきでしょう。

 

werden の二義

1.(これまでなかったものが)生まれる、生じる(werden-1)

2.(すでにあるものが)変化する、変わる、発展する、展開する(werden-2)

 

[注]日本語の「なる」も「生まれる・生じる」という意味を表現することがあります。例えば――「実がなる」「ローマは一日にしてならず」など。

 

 そこで、つぎのような表現に注目してください。

 この表現に関しては、すでにこのコーナーで取り上げたことがあります(語学エッセイ 14:「変身のお話」)。よく考えてみると、これは「愛から憎しみが生まれた」ということですから、この werden は「生まれる・生じる」という意味で使われていることがわかりますね。(ついでに言っておくと、この aus は「素材の aus」ですから、正確に逐語訳すれば「憎しみが――愛を素材として――生じた」ということになります。)

 日本語で「愛が憎しみに変わった」と言えば、「愛」が「憎しみ」へと変化したわけですね。ところが、ドイツ語の Aus Liebe wurde Hass. はそうではありません。「憎しみ」は突然生まれたのです。憎しみは突然生まれたのだけれども、そこには「愛」という素材があった、と言っているのです。

 「言い方は違っても、結局表現していることは同じなんでしょ。字句にばかりこだわって、重箱の隅を突っつくような議論だ」と思われた方もきっといらっしゃることでしょう。ところが、この「言い方」というものが言語においてはきわめて重要であり、werden という動詞の本質をつかむためには、その点にあくまでこだわる必要があるのです。

 さてここで、つぎのような、werden のごく基本的な、典型的な文例に戻っていきます。

 

 

 Ich werde Arzt. は「私は医者になる」です。でも「私は医者になる」って、いったいどういうことなのでしょう。「AがBに変わる」(例えば「水が氷になる」という具合に)という意味で、「私」が「医者」に変化する、という意味なのでしょうか。そうではありませんね。医者になったあとでも、「私」はなくなるわけではありません。

 人の一生は、生まれてやがて「小学生」になり、「大学生」になり、「大人」になり、ある人は「会社員」になって「一人前」になり、そして「中年」になり、「定年」となって、やがて「老人」になるわけですから、私という基体が次々とカテゴリーを変えていく、そのカテゴリーの変化を日本語では「なる」といっているのです。

 「ドイツ語だって同じなのでは」と思われるでしょうが、実は違うのです。

 Ich werde Arzt. は、Ich bin Arzt. と同じタイプの文型です。A ist B. という文型は、「AはBである」ということで、広い意味の判断・評価を表現する典型的な文型であるといっていいでしょう。ところでこの文型は、もともとは「AはBとして存在する」A existiert als B. という意味だったのです(だから、BはAと同じ格、つまり1格となるのです)。

 そうすると、A wird B. も、もともとは「AはBとして生じる」という意味だったに違いありません。Er wird Arzt. は「彼は医者として生まれる」と解釈できます。

 日本語で「彼は医者になった」と言う場合、極端に表現すれば、「彼は自然に医者に変化していった」というようなニュアンスがつきまといます。しかし Er ist Arzt geworden. というドイツ語は、決して「彼が医者に変化していった」という意味ではありません。一人の医者が生まれたのです。ですから、ドイツ語では

という表現が可能なのです。Er ist Arzt geworden. とは主語が異なっていますが、この表現とまったく同じ意味を表しているのですから、いずれにせよ、「医者としての彼」が新たに誕生した、という考え方に基づく表現であることが分かるでしょう。

 ドイツ語は「変化」を「不断の生成」と考えます。「不断の生成」というのは、分かりやすく表現すれば、「何度も何度も生まれ変わる」ということ、「小さな誕生が何度も何度も起こる」ということです。

 空間の認識方法というものは人類にほぼ共通ですから、どんな民族でも空間関係に関しては大体同じイメージをもっているといっていいでしょう。ところが時間の認識、つまり「時間の経過」というものは、比喩としてしかイメージすることはできません。したがって各民族はそれぞれ固有の「時の経過」のイメージをもっています。難しく言えば「歴史認識」ですね。

 私たち日本人は「時の経過」をどのような比喩で理解しているでしょうか。そのそもこの「時の経過」ということばですが、どうも日本語としてすわりが悪い。「時の流れ」と言ったほうが、私たちにははるかに自然に感じられます。

 そうなのです、日本人は時間の経過を「大河の流れ」として理解しているのです。それも「始まりも終わりもない滔々たる大河の流れ」のイメージです。このことは私たちにとってあまりにも自然なので、世の中に時の経過を「流れ」以外のイメージで考える民族がいるかもしれないという可能性さえ思い浮かばないのです。

 それではドイツ人は時の経過をどのようなイメージでとらえているのか。それは一言で言えば「生成」Werden です。時間の中で、あるものが生まれ、発展あるいは展開し、そしてやがて消えていく。無数の人間が、無数の生物が、無数の出来事が、お互いに絡み合いながら、<生><展開><滅>という経過を繰り返す。

 これを仮に「個物重視歴史観」と名づけることにしましょう。この歴史観では、時は流れるのではありません。時は<断裂>します。なぜなら、新しい重要な出来事が起こると、そこには時間の「切れ目」「裂け目」ができるからです。

 「流れ」としての歴史観では、変化はすべて連続的です。一人一人の人間はもちろん生きて活動してそして死ぬわけですが、ここでは個人や個物に注目が集まらないで、それらの総和である全体を眺めているから、変化全体が「連続体」と認識されるのです。

 おまけにキリスト教では、この世には始まりと終わりがある、と教えていますので、その意味でも、時間は「時間以前」と「時間以後」から截然と切り離されていることになります。

 「時間の切れ目」という観念は、私たち日本人には分かりにくいのですが、ドイツ語ではこれを Einschnitt といい、普通に使われる言葉です。

 

 

 Einschnitt は ein|schneiden の名詞形で、ein|schneiden は「切り込みを入れる」という意味です。Einschnitt は普通「(重大な)転機」と訳せばいいのですが、これまでの段階がここで終わり、ここから新しい段階に入るという境目のことをいいます。つまりこの時点で古い段階が死に、新しい段階が生まれるわけですね。

 こういった転機をドイツ語では Einschnitt と言っているということの意味をよく考えれば、ドイツ人と日本人とはその歴史観が、そしてその根本にある時間概念が異なっているということが理解できるのではないでしょうか。

 

[補足1]池上嘉彦は『するとなるの言語学』で、ヨーロッパ系の言語を「する」、日本語を「なる」というキーワードで特徴づけていて、これは一見ここでお話したことと正反対の主張のように思えますが、これは一つには、一方は「変化」、もう一方は「存在」のとらえ方に着目しているということ、それから、日本語の「なる」(=非人為的、自然的「なりゆき」)とドイツ語の werden(=時々刻々の生成・発展)では、実はその語像がかなり異なっているというところから来ています。日本語は「なる」型の言語である、と池上氏は言うのですが、これを日本語は werden 型だと言うとすれば、少なくともドイツ人にはその趣旨はまったく理解できないでしょう。

[補足2]エルンスト・ベルトラムという哲学者は『ニーチェ』の中で、典型的にドイツ的な思考方法として「生成」Werden というキーワードを強調しています。「生成」という概念こそ、ラテン的思考方法とは異なる、ドイツ人の特徴的な世界のとらえ方だ、とベルトラムはこの著書のなかで主張しているのですが、ドイツ的とはなにかを考える上で大いに参考になります。一度「ドイツ的生成」という章だけでも読んでみてください。

 

 

 

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