少し前の「単語/熟語研究(90)」では feige を、そして前回の「単語/熟語研究(108)」では dumm を扱いましたが、これらの記事を書いているうち、ドイツ語と日本語とではこういった判断・評価を表す形容詞の基本的な考え方が異なっているのではないか、と思うようになりました。
それは具体的には、つぎのようなことです。
1. 日本語の形容詞は、基本的にあるモノが本来もつと考えられる性質や性格を描写する。性質や性格は持続する状態であるから、これは静的描写である。
2. ドイツ語では形容詞はしばしば、あるモノのその時その時の状態を描写するために用いられる。その時その時の状態であるから、これは変化していくモノの一時的状態の描写で、動的描写である(ただしドイツ語の形容詞にも静的描写はある)。
前回の「単語/熟語研究(108)」で、ドイツ語は形容詞を実践的にとらえる傾向があるというお話をしました。dumm という形容詞は、実際にはその人の能力や性質を判定し描写する(「馬鹿だ!」)というよりも(これを仮に「性質描写形容詞」と名づけましょう)、「具体的にあることをするための能力が欠けている」「能力の欠如により、あることができない」という意味で使われることのほうが多いようです(こちらは「様態描写形容詞」とします)。
そしてその際には、「その人の能力が欠けている」という点よりも、「あることをやろうと思ってもできない」という側面のほうに重点があります。つまり dumm は、性質一般を表示する働きよりも、「個別具体的な状況における不能性」を表現するというのが基本です。
あるいはこういったほうが分かりやすいかもしれません――
日本語の「馬鹿な」は、ある人を「馬鹿だ」と断定するということが基礎になっている。ドイツ語の dumm は、dumm sein「馬鹿であること」ではなく、dumm handeln「馬鹿なことをしでかすこと(直訳:馬鹿的に行為すること)」という観念が基礎となっている。
dumm sein は性質の形容です。dumm handeln は行為の形容です。前者は「静的形容」、後者は「動的形容」といっていいでしょう。ですから、日本語とドイツ語の違いを際だたせるため、ドイツ語の形容詞は動的性質が強く、日本語の形容詞は静的性質が強い、と一応図式的・対照的に考えておきましょう。
とはいうものの、ドイツ語の形容詞にも静的形容という働きはありますし、日本語の形容詞に動的形容という考え方はない、などといっているわけではありません。ただ、feige や dumm といった、判断・評価を表現するドイツ語の形容詞は、個別的・具体的な行為を形容するのが原則であり、本来の機能である、ということを心得ておくと、その用法がずいぶんと分かりやすくなるのではないかと思っています。
そして、この形容詞の考え方の相違の背後には、「日本語はあらゆる存在をカテゴリー的に、静的に把握し、ドイツ語は存在を変化の相としてとらえる」という、日本とドイツのより根本的な存在把握の違いがありそうです。「存在のカテゴリー的把握」というのは、分かりやすく言えば、「すべてのモノにレッテルをはって分類することで、分かったような気になる」という心的態度のことです。
[注]dumm handeln の dumm は副詞ですので、「行為の形容」というのはおかしいと思われる方もいるかもしれませんが、ドイツ語では形容詞と副詞は本来厳密に区別されませんし、「判断・評価」という観点からは、形容詞と副詞という区別はほとんど意味がありませんので、「性質の形容」と用語を合わせるため、ここでは「行為の形容」という用語を使うことにします。
dumm よりも feige のほうが分かりやすいと思いますので、こちらから入りましょう。「単語/熟語研究(90)」で、feige は「臆病な」ですが、しばしば「卑怯な」と訳さなくてはならない、というお話をしました。
例えば ein feiger Angriff というのは、「臆病な攻撃」(「びくびくしながらの攻撃」?)ではなく「卑怯な攻撃」です。そうして Er ist feige. と言った場合、これは「彼は卑怯者だ」(あるいは「彼は臆病者だ」)というように、彼の性格を規定する表現であるというよりも(そういうことももちろんありますが)、実際には Er hat feige gehandelt.「彼は feige な行動をとった」ということを意味することが多いように思われます。
日本語で「彼は臆病だ(臆病者だ)」「彼は卑怯だ(卑怯者だ)」と言った場合、これは通常、その人物の性格に関する一般的な判断を表現しているものと見なされます。日本語は、このように、人間や物をあるカテゴリーに当てはめてしまおうとする傾向が顕著です。「彼は臆病者だ」と言うとき、彼には「臆病者」というレッテルが貼られて、そして「臆病者」というカテゴリーに分類されてしまったわけです。
ところが、ドイツ語で Er ist feige. といった場合には、先ほども言いましたように、彼の性質を feige と断定しているというよりも(そういうこともありますが)、彼の1回きりの具体的行為が feige と判断されている。つまり「彼は(その時)feige であった」という意味で用いられることが多いので、彼は、別のシチュエーションでは tapfer「勇敢な」であったり、ehrlich, aufrichtig「誠実な」であることも可能です。
つまり、ドイツ語は、ある人物を最初から「臆病者」「卑怯者」と決めつけてしまうのではなく、その人の個々の行為に関して tapfer か feige かという判断が行われるというのが基本です。
どうですか、ここまでのお話、理解していただけましたでしょうか。分かったような分からないような、というのが皆さんの正直な感想ではないでしょうか。今回のお話は多少微妙な点を含んでいるので、きちんと皆さんに理解していただけるかどうか、もう一つ自信がありません。
静的把握と動的把握の違いは、名詞にも見られますので、ここでドイツ語の動作主名詞の日本語にはない特徴について説明することにします。そこからの類比で考えると、いまお話していることがずっと分かりやすくなると思います。
これは以前すでに一度お話したことがあるのですが、例えば、ドイツ語で
と言った場合、これを「彼は優秀なコック(料理人)だ」と日本語訳すると、誤訳となってしまうことがあります。
というのはドイツ語の Koch という名詞には、職業名としての「調理師」「コック」以外に、単に「料理をする人」jemand, der kocht という意味で用いられることがあり、上の文はしばしば単に「彼は料理が上手です」Er kocht gut. ということを表現するにすぎないことがあるのです。
Er ist ein guter Lehrer. は、「彼は良い先生だ」あるいは「彼は優秀な教師だ」と訳すのが普通でしょうが、場合によっては、彼の職業は先生ではなく、ただ単に「教えるのが上手」という意味で、ein guter Lehrer ということがあるのです。
[補足]Er ist Lehrer. と言うと、「彼の職業は教師だ」という意味ですが、Er ist ein Lehrer. と言えば、「彼は(先生ではないが)なかなか先生らしいところがある」という意味です。ところが、Er ist ein guter Lehrer. と言った場合には、彼は「教師」なのか、それとも「教師らしい人」なのかは分かりません(どちらでもありうる)。
そうすると、Lehrer には「教師」と「(教師ではないが)教える人」の2通りの意味があると言うべきでしょうか。日本語から考えれば、そのように思われます。
Lehrer は文字通りには lehren する人、つまり「教える人」です。「教える人」はまずたいていの場合は「教師」であるにしても、Lehrer=「教える人」という基本語義は、ドイツ語では常にしっかりと意識されています。ところが私たち日本人はこの単語を聞くと反射的に「教えることを職業とする人」と解釈してしまう。なぜでしょうか。
日本語では、「教師」「教員」は職業名であり、普通には「先生」と呼ばれますが、「彼は先生です」と言えば、彼を社会的カテゴリーに従って分類したことになります。ところがドイツ語では「…する人」という単語がそのまま職業名にも使用されます。Lehrer は、日本語の「教師」と同様、職業名を表示する名詞ではありますが、基本的には、人間がその時その時とる具体的な行動を表示する名詞なのです。
ですから、日本ではある人が「良い教師」であって同時に「良い料理人」でもある、ということはまずありえませんが、ドイツでは ein guter Lehrer でありながら ein guter Koch でもある(しかも彼の仕事は教師でも料理人でもない)ということは十分起こりえます。
日本語の「教師」は固定的・持続的・分類的、従って静的です。ドイツ語の Lehrer は「教える人」ですから、誰もがいつどこでもそれになりうるという意味で、変動的・断続的・任意的ですので、動的と言っていいでしょう。
「教師」と "Lehrer" とのこの関係は、そのまま「臆病」と "feige" の関係でもあります。もちろん「臆病」は職業ではありませんし、一人の人間が臆病になったり大胆になったりするという考えは日本にもあるのですが、基本的には、ある人物に「臆病(者)」というレッテルを貼ることで、その人物の行動パターンを知ろうとするのが、日本人の発想ではないかと思います。
日本語で「彼は臆病だ」という場合、「彼は臆病者だ」というのと同義でしょう。つまり彼の性質は臆病である、ということを意味します。性質が臆病なのですから、彼はどんなときにも臆病な行動をとるにちがいありません。「彼は卑怯だ」も同様に解釈されます。ところがドイツ語で Er ist feige. という場合は、通常は「彼は臆病風を吹かせた」「彼は卑怯な振る舞いをした」という意味を表現するのです。
「臆病者」はその人のレッテルです。その人の性格の静的な描写です。「臆病風」はその時のその人の1回きりの行動を形容する言葉であり、動的な描写です。「臆病風」がおさまれば、彼はあるいはまた勇敢に振る舞うことができるかもしれません。「臆病風」は、不断に変化していく人間の行動の、ある具体的な局面における姿を判断し、形容する言葉です。
私は今、日本語とドイツ語の判断・評価を表す名詞・形容詞の考え方の違いを際だたせるため、対比的、対照的に図式化しながらお話していますが、もちろんドイツ語の Er ist feige. が、日本語と同様、「彼は臆病者(あるいは卑怯者)だ」と、その人の性格を描写する文として用いられることはありえます。ただ、ドイツ語は日本語と比較すると、そういった名詞・形容詞は、その人の静的な性質や性格ではなく、その時その時の状態や動作に関する判断・評価を表現する傾向が強いということは確かです。
これまでの話をまとめてみましょう――
日本語の判断・評価形容詞は「一般化」への傾きをもつのに対し、ドイツ語の判断・評価形容詞は、原則的に、個別・具体的な動作をその対象とする。
形容詞 dumm についても同じことが言えます。ドイツ語の dumm と日本語の「馬鹿[な]」と の間にも、やはり "Lehrer" と「教師」と同じ関係が成り立っています。dumm は、その人に貼り付けるレッテルであるというよりも、その人の個別・具体的な動作に関するコメントであると受け取られるのが普通ですから、Er ist dumm. と言った場合、それは Er hat dumm gehandelt. とほとんど同じ意味になります。
dumm は「馬鹿な[奴]」(=その人の性質の形容)ではなく、本質的に「馬鹿な[こと]」(=その人の行った行動の形容)なのです。そのように考えると、この形容詞の実際の使われ方がよりよく理解できるようになるでしょう。
[補足]ドイツ語の dumm や feige が純粋な形容詞であるのに対し、日本語の「馬鹿な」「卑怯な」「卑劣な」は、すべて名詞から派生した形容詞(日本語文法では「形容動詞」といいますが)であり、名詞が基礎になっています。これは、日本語では人間の「性質」さえも名詞的=実体的に把握されているということを意味しています。ドイツ語の「馬鹿」(名詞)は Dummkopf で(ほかにもいろいろな言い方がありますが)、こちらは形容詞が先で、そこから派生名詞が生まれています。
dumm が出たついでに、その反対語である klug についても考えてみましょう。klug は日本語では「賢い」「利口な」だと思います。しかしドイツ語で Er ist klug. といった場合、これが「彼は賢い人間だ」という意味で用いられることはあまりありません。これは実際には「彼はうまくやった」、つまり Er hat klug gehandelt. と同義であると考えたほうがいいでしょう。
つまり klug という形容詞も、その人のもつ性質を形容することがその主な働きなのではなく、その実際の使われ方を見ると、その人の個々の具体的な行為を判断・評価するものとして用いられるというケースがほとんどです。
そして klug は、個別・具体的な行為に対する判断であると同時に、その判断はきわめて具体的です。klug「賢い」とは実際にはどういうことを意味するのかといえば、それは「あることを行うにあたって、それを実現するすべを心得ている」ということです。「目標遂行能力が高い」ということです。
したがって、ある行為を遂行するにあたって「知識がある」「経験がある」「コツをつかんでいる」「やり方をしっている」「うまくやれる」こと、つまり「一定の状況のもとで賢明な行動がとれるという状態」、これが klug と呼ばれるのです。klug は常に「行為」「行動」と結びついています。(日本語の「賢い」は基本的に「性質」と結びついていることを確認してください。)
aus et. nicht klug werden という言い回しがありますが、これは「あることが理解できない」という意味です。こんな風に klug が使えるなんて、私たち日本人には驚きですが、ドイツ語の考え方では、人はある瞬間に klug になったと思ったら、次の瞬間にはもう nicht klug になってしまうことがあるということを、この言い回しから理解していただきたいと思います。(この klug は「ある行為を遂行するにあたって知識がある」から、単に「知識がある」という意味へと変化したものだと思います)
これに関連して、つぎのような成句もあります。
どういう意味だか、分かりますか。これは「現在の私の賢さ(=知識)は以前と同じだ」ということで、結局「今でも相変わらずよく分からないなあ」という意味です。
そういうわけで、ドイツ語の考え方では、ある人がある行為をするときには klug とほめられても、同じ人がそれとは別の行為をするときには dumm となる、というのはごく普通のことです。同じ人が、時には Koch「料理人」になったり、Lehrer「先生」になったりするように、同じ人がケース・バイ・ケースで klug にも dumm にもなるのです。
ここには日本語とドイツ語の基本的な認識方法・現実把握の違いがありそうです。日本語は「…である」という枠組みで現実を捉え、ドイツ語は「…になる」という枠組みで現実を理解しています。
また別の観点から考えると、「馬鹿[な]」「賢い」「卑怯[な]」といった日本語の形容詞の使い方は演繹的、dumm や klug や feige といったドイツ語の形容詞の使い方は帰納的と言えるでしょう。日本人の場合、「彼は馬鹿だ」という一般的な判断が最初にあり、その判断に照らして、彼の個々の行為の評価がなされる。分かりやすく言えば、「彼は馬鹿だから、馬鹿なことをする」という考え方をするということです。
日本では、最初に「彼は…だ」「彼女は…だ」というカテゴリー判断が下される。そうしてその考え方にそって、事実なり行動なりが解釈されてしまう。そうして自分自身もまた、そういった一般常識といいますか、一般通念の呪縛にがんじがらめになって、自分の本当の可能性に気づかないというケースが圧倒的に多いように私には思われます。これを日本人の「カテゴリー化思考」と名づけましょう。
例えば、「男なんだから」とか「女のくせに」とか「ええおっさんが」とか「もう年なんだから」とか「日本人だったら」とか、これに類する言葉は、日本人がよく口にする台詞だと思いますが、よく考えてみると、これほど内容の希薄な言葉はありません。
ところが日本語では、こういった言葉が立派に意味をもってしまう。なぜか。それは、「男」であればこれこれこういうことをするもの、「もういい年」であればこれこれこういうことをする、「日本人」であればこれこれこういうことをする、あるいはこういったことはしない、というパターン化された社会通念が日本には厳然と存在するからです。
この「人間の行動に関するパターン化された社会通念」と「カテゴリー化思考」とが車の両輪となって、日本人の自由な思考を疎外し、行動の可能性を制限しているのです。思考の自由がないところに行動の自由があるはずはありません。目が悪くて檻がよく見えないので、自分を自由だと錯覚している猿――これが私たちの真の姿かもしれませんよ。