「変身物語」は神話や童話には欠かせません。日本の神話や童話には、変身の話はそれほど多くないようですが、西洋では、例えばギリシャ神話などを見ると、ゼウスの変身を初めとして、それこそ「変身物語のオンパレード」といった感があります。
「グリム童話集」にも変身の話が数多く見られます。この童話集の先頭を飾るのは "Der Froschkoenig oder der eiserne Heinrich"「蛙の王様あるいは鉄のハインリッヒ」 という童話ですが、これは蛙に変身させられた王様の物語です。
「若い王様は蛙に変身した」であれば、sich verwandeln という再帰動詞形をもちいて、
となります。どちらにせよ、変身先は「in+4格」で表されますが、どうして「蛙の中へと変身した」というのでしょうか。考えてみますと、英語もフランス語もドイツ語同様であることに気が付きます。
[補足]念のため、英語とフランス語の文例を挙げておきます。
- A caterpillar changes into a butterfly.
青虫は蝶に変わる。(旺文社『英和中辞典』による文例)
- La fee a change les souris en cochers.
妖精はハツカネズミを御者に変えた。(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』による文例、フランス語のアクサン記号は表記の上で無視してあります)
私たち日本人が、「蛙の中へと変身する」という表現を奇異に感じるのは、日本語でそう言うと、王様と蛙が同時に存在し、蛙の中に王様が入り込むように感じられるからです。王様が蛙へ変身したのだから、変身以前には蛙は存在しないはずだ──と私たちの誰もが考えます。ところがドイツ語の考え方では、変身以前にも蛙はやはり存在し、王様はその蛙の中へと入り込むのです!
私たち日本人がドイツ語を読んだり聞いたりしていて、ある特定の表現や言い回しを不思議に感ずることは、まあ、日常茶飯事といってもいいでしょう。それは外国語学習者としてごく当然のことです。この「表現上の違和感」、これに徹底的にこだわることが、外国語を学習していく上で、きわめて重要なのです。なぜだろう、なぜだろう、と悩んでいるうちに、やがてある時、ふとドイツ人の考え方の筋道がくっきり浮かび上がってくる瞬間にぶつかります。するとそれまでの疑問が一挙に氷解するのです。
おおよそ言語というものは、一民族の思考様式の忠実な反映です。ある民族が、世界や人間、そして自己といったものをどうとらえるのかという、そのとらえ方、それによって言語は成立しています。民族の各構成員は、この世に誕生した瞬間から、民族の言語を与えられた環境の一部として自然に受け入れることで、言語に内在する思考様式に規定されることになるのですが、無意識の規定ですから、普通はそれをまったく「規定」と感じないまま、私たちは世界を認識しています。
今回のテーマである、 j4 in et4 verwandeln「人4を物4に変身させる」(「人4を人4に」でも「物4を物4に」でもかまわないのですが、煩わしくなるので「人4を物4に」に限定しておきます)という表現に対する私たちの違和感をつきつめていくと、それは結局、「ものが変化する」という現象の解釈が、日本語とドイツ語とで違っているという点に帰着します。
最初に結論から言いますと──
ドイツ語では、「変身」することを別の Form を獲得することと考える。したがって、「王様が蛙に変身する」とは、「王様」という Inhalt が「蛙」という Form の中に入ることである。
今、Form と Inhalt というドイツ語を用いて説明しましたが、この2つの名詞は、ご存じのように哲学用語でもあり、日本語では「形式」と「内容」という訳語が与えられています。アリストテレスの哲学では「形相」(原語のギリシャ語は「エイドス」、ドイツ語ではやはりForm)と「質料」(ギリシャ語は「ヒューレー」、ドイツ語では Materie[マテーリエ])という用語が用いられますが、同じことです(形相=形式、質料=内容)。
西洋哲学でいう「内容と形式」の意味するところは、私たち日本人がこの言葉から思い浮かべる意味とはかなり違っていますが、そのことをはっきり理解している人は少ないようです。変身先の「in+4格」を理解するためには、ここのところを理解することがどうしても必要なので、哲学的な議論に不慣れな方もいらっしゃるでしょうが、しばらく我慢しておつきあいください。
故関口存男氏は、皆さんご存じのように、西洋哲学にも造詣の深い偉大なゲルマニストでしたが、『再帰的表現と Existenz の解釈』(『ドイツ語学講話』所収)の中で、次のように述べています──
我々日本人にはひどく高尚な変った天外の奇想と思われるかもしれないが(注:「自己が自己によって見捨てられる」といったドイツ語の再帰表現のことを指しています)、ヨーロッパそのものの言語、習慣、常識、『意味形態上の習癖』から出立して考えるならば、かれらの哲学はちっとも天外の奇想でもなければ常識離れのした高遠な理屈でもなくむしろ余りにもヨーロッパ的常識の範囲を出ないものが多すぎて困る位なのであります。
さて、アリストテレスは次のように考えます(以下は彼の哲学を私の言葉で解説したものです)──
例えば木製の椅子を考えてみよう。椅子を制作する際には、設計図とそして素材となる木材が必要である。換言すれば、椅子は Form と Materie から成り立っている。出来上がりの椅子の Form を決定するのは、設計図である。Materie はそれだけでは何の役にも立たない単なる素材である。それは「可能性」にすぎない。Materie という可能性は、Form を獲得することで、はじめて本当の意味で存在するようになる。Materie ももちろん大事ではあるが、椅子を椅子たらしめているのは Form である。つまり椅子の本質とはその Form であって、Materie ではない。
「椅子」ばかりではありません。私たちがこの世で出会うものはすべて、Form と Materie(または Inhalt)という2つの存在様式に分けて考えることができます。この「質料と形相」(または「内容と形式」)の区別を存在論の基礎にすえたのは確かにプラトンやアリストテレスといったギリシャの哲学者たちですが、アイデアそのものは決して彼らの机上の空論ではなく、古代ギリシャの時代から現代に至るまで、ヨーロッパの人々の血となり肉となっているごく常識的な考え方なのです。
すべての存在するものがもつ2通りの存在様式のうち、その事物を事物たらしめる本質的なもの(その事物のアイデンティティーを決定するもの)、それは Matierie ではなく Form である、という点が特に重要です。そして「存在」はすべて「つくられたもの」または「与えられたもの」である、という西洋思想の伝統的な存在の解釈を背景とするとき、この世に存在するものはすべて、Materie が Form を獲得するということによって、初めて本当の意味で存在するようになるということが、私たちにも納得できるようになります。
そうすると「変身する」というのは、Materie がそれまでまとっていた Form を抜け出して、別の Form を身にまとうことと解釈される可能性がでてきます。つまり Materie 自身はずっと変わりませんが、これが新しい Form の中へと入り込むので、「変身」が成就するのです。しかしここで私たち日本人が不思議に思うことは、Form というものが Materie を離れて実在しているという点でしょう(前もって存在していなければ、その中に入り込むことはできませんから)。
「形相」(Form)の原語であるギリシャ語は、先ほども言いましたように「エイドス」です。プラトン哲学では、これは「イデア」とよばれています。つまり「エイドス」と「イデア」は同義なのです。「イデア」は現実に不完全な形で存在する諸物の原型であり、これこそが不変の実在です。この世で私たちが出会うものはすべてイデアの影にすぎませんから、本当の意味では存在しているとは言えない、とプラトンは主張します。
アリストテレスは、Materie「質料」を「デュナミス」(可能態)ともよび、Form を「エネルゲイア」(現実態)ともよんでいます。「可能態」とは「実現する可能性を内在しているもの」、つまり「未だ実現せざるもの」のことですから、「質料」は「未だ存在に至らないもの」であり「非存在」です。
[補足]「物質名詞は、不可算名詞であるから無冠詞」というよりも、物質名詞は質料と考えられるから無冠詞、というべきではないでしょうか。「質料」は単なる「可能態」にすぎないので、したがって無限定であり、完全な意味では存在さえしていないものだからです。
verwandeln の文例は辞書にもたくさん載っていますし、その気になればいくらでも見つけることができますので、ここでは E. Kaestner からの文例を2つだけ挙げておきます。
一週間前に管理人のおじさんが整備してくれてスケートリンクへと変貌した運動場では、みんながスケートをしていた。
彼らは二度その劇の予行練習をした。最もやっかいなのはマッツの役割である。特に4幕と5幕の間の着替え時間が短いので、彼はさんざん苦労した。なにしろ1分という時間内で「北極熊」から「聖ペトロ」に変身するなんて、なまやさしいことではない。
「彼はドイツ語の文章を日本語に訳す」は、皆さんもご存じのとおり、ドイツ語で
Er uebersetzt den deutschen Text ins Japanische.
といいますが、この時なぜ「日本語の中へ」と表現するのかは、これではっきりします。
「ドイツ語の文章」はあることがらをドイツ語で述べたものです。先ほどの「内容と形式」という考えにあてはめると、「表現されている(または:表現しようとする)ことがら」が内容であって、それが「ドイツ語」という形式をとっていることになりますね。そうすると翻訳というのは、そこで表現されていることがらが、別の言語の形式をとることです。ですから「日本語に訳す」はドイツ語で ins Japanische uebersetzen「日本語という形式の中へと訳し入れる」と言うのです。