第九章・負傷

アキレウスが戦場から身を引いてから、3日目の戦闘となる朝が来た。
ゼウスは争いの女神エリスに“戦いの印”を持たせてアカイア陣営に遣わした。エリスが凄まじい雄叫びを上げると、アカイア勢の一人一人の胸に不屈の闘志がみなぎった。
アガメムノンは大声で出撃の準備を命じると自らも青銅の武具に身を包んだ。
これに対しイリオス勢もヘクトルを先頭に戦列を整えていた。
やがて両軍は戦闘に入り、神々の中ではエリスだけがこの戦場に立ち会っていた。


オリュンポスではゼウスが“トロイア方に栄誉を与えようとしている”とアカイア側の神々の非難を浴びていたが、神々の王は気にも留めていなかった。
一方戦場ではアガメムノンが奮闘し、次々に敵を倒していた。アガメムノンは味方の軍を鼓舞しつつ、とうとうスカイアイの門の所までイリオス勢を押し返した。
それを見ていたゼウスはイーデー山に降り立ち虹の女神イーリスを呼ぶとヘクトルの元へ伝令として遣わした。
イーリスはヘクトルの元に降り立つと“アガメムノンが前線で戦っているときはそなたは戦闘をさけ、アガメムノンが負傷したならばその時こそ戦場に立ちなさい。そうすれば敵の船陣に夜がくるまで切り込むことが出来るでしょう。ゼウスがその力を授けることを約束しました。”と伝えた。
ヘクトルは女神の言葉を聞くと戦車から降り兵士たちを激励し、自分は神の言葉に従った。
アガメムノンは更にイリオス側の武将をなぎ倒していったが、彼に弟を討たれたコオンがアガメムノンの腕に槍を突き刺した。しかしコオンは逆に討ち取られてしまった。
アガメムノンは負傷しながらも戦い続けていたが、やがて激しい痛みが彼を襲い戦車を駆って陣営に戻ることにした。
ヘクトルはアガメムノンが戦場から去るのを見ると友軍たちに呼びかけて神の加護があると鼓舞し、今度はヘクトルが次々とアカイア勢をなぎ倒していった。
この光景を見たオデュッセウスとディオメデスは、神の加護が今トロイア方にあることを悟りつつも、その場に踏みとどまり敵を撃退していた。
2人の姿を見たヘクトルは叫び声を上げて突進し、イリオス勢もそれに従ってきた。
ディオメデスがヘクトル目掛けて槍を放つと彼の兜に当たったが、アポロンから賜った兜はそれを跳ね返した。ディオメデスは悔しがったがとりあえずヘクトルを討ち取ることをあきらめ他に倒したトロイア武将の武具を剥がしにかかった。
それを見つけたパリスが塚の影からディオメデスに弓を射掛けると、矢はディオメデスの右の足を貫き地面に突き刺した。
オデュッセウスがディオメデスを庇い彼の前に立つと、ディオメデスは足から矢を引き抜いたが激しい痛みに退却するしかなかった。
その場にはオデュッセウスが一人取り残されたが、恐怖に駆られたアカイオイの誰一人としてその場に残るものはいなかった。彼はイリオス勢に囲まれてしまったが次々に敵を倒していく。
カロプスという武将を槍で刺したとき、カロプスの兄ソコスが弟を助けようとオデュッセウスの前に立ちはだかり槍でオデュッセウスの盾を突いた。 槍は盾を貫き、胸当をも突き通してオデュッセウスのわき腹を刺したが、アテナの計らいで致命傷には至らなかった。オデュッセウスは女神の加護を悟り逆にソコスを討ち取った。
ソコスの槍を引き抜くと血が噴出し激しい痛みが走る。イリオス勢はオデュッセウスの血を見ると集団で彼に迫ってきた。
オデュッセウスが後ろに退き味方に向かって3度叫ぶとその声はメネラオスの耳に届いた。メネラオスはすぐ側にいた大アイアースに声を掛け2人はオデュッセウスの危機を救おうと駆け出した。オデュッセウスは敵に囲まれ絶体絶命の危機に陥っていた。その隣に大アイアースが大盾を構え立ちはだかると、イリオス勢は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。すかさずメネラオスがオデュッセウスの手を取り彼を救い出して、彼は難を逃れることが出来た。
アイアースはイリオス勢に襲い掛かり、馬も人も手当たりしだいなぎ倒していったが、ヘクトルはこの時スカマンドロス河の側で戦っていたのでこの事を知らなかった。

スカマンドロス河の側では、ネストルとイドメネウスを討ち取ろうと更なる激戦が繰り広げられていた。
そこではアカイオイの英雄医師であるマカオンがパリスの矢に右肩を撃たれ負傷していた。イドメネウスがネストルにマカオンを至急陣営へつれて帰るよう声を掛けると、老騎士はマカオンを戦車に乗せアカイア陣営へ走り去った。
その時ヘクトルの戦車に同乗していたケブリオネスはアイアースによってイリオス勢が混乱に陥っているのに気がつき、ヘクトルにこれを知らせ仲間の危機を救おうとアイアースのいるところに馬を走らせた。
ヘクトルは群がる戦士たちの間に突入しアカイオイを殲滅していった。
この時ゼウスはアイアースの胸に恐怖の念を起こさせた。アイアースは敵を防ぎつつも少しずつ後方に退いていった。
アイアースが槍や矢が降り注ぐ中射すくめられている様をエウリュピュロスが加勢したが、パリスに矢を射掛けられ負傷してしまった。味方の軍勢に“アイアースを囲んで踏みとどまってくれ”と叫ぶと彼も退却していった。

一方アカイオイの陣営ではネストルが馬を走らせてマカオンを運び込んでいた。その光景を見たアキレウスはパトロクロスを呼び“今運び込まれた武将はマカオンかどうかネストルに聞いてきて欲しい”と頼んだ。
パトロクロスは承知しネストルの陣屋に向かった。ネストルはパトロクロスを見ると中に入るよう勧めたが、パトロクロスはアキレウスに怪我をしたのはマカオンかどうか確かめるよう言われてきただけなのですぐに帰ると断った。
するとネストルは“アキレウスは何故それほどまで矢を受けて傷ついた者だけを気遣うのか。今アカイア全軍がどれほどの苦境に立たされているのか彼は知らないのだ。数々の武将たちが傷つき伏せっているというのに、彼は海辺の船団が炎に焼かれ皆が討たれるまで動かないつもりなのだろうか”と語りかけた。
そしてパトロクロスに“どうかアキレウスに出陣してもらえるように口添えしてもらえないか”と頼み、“もしそれが叶わないならそなたがアキレウスの武具を借り、ミュルミドネスを率いて出陣してはくれまいか”とパトロクロスの心を動かそうとした。
パトロクロスはアキレウスの陣屋に戻ろうと走っていったがその途中でエウリュピュロスが血を流しながら脚を引きずって戦場から帰ってくるところに出くわした。
パトロクロスが彼に話し掛け“アカイア軍はこれからもヘクトルを抑えることが出来るだろうか。それとも彼に討たれて果てるしかないのだろうか。”と尋ねると“アカイア勢にはわが身を守る力は無く、皆船に逃げ込むことになるだろう”と彼は答えた。
そして“治療を受けようにもマカオン自身に医者が必要な状態なので怪我を治すことも出来ない。ケイロンに教えを受けたアキレウスから伝授された薬で君が私の怪我を手当てしてはくれまいか”とパトロクロスに頼み込んだ。

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