第二十章・老王
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葬送競技が終わり皆それぞれの陣屋に帰っていったが、アキレウスだけは親友を失った悲しみを癒せず悲嘆に暮れていた。
夜明けとともに馬を戦車につなぎヘクトルの遺体を後ろに結びつけパトロクロスの墓の周りを三度引きずりまわしては陣屋で休む。それを彼は繰り返した。


この有様を見ていたアポロンはヘクトルを哀れに思い彼の身がずたずたにならないようアイギスで覆い守っていた。
オリンポスの神々は皆ヘクトルを憐れみヘルメスに彼の亡骸を密かに奪うようすすめていたが、ヘラ、アテナ、ポセイドンの三神は決してそれを許さなかった。
ヘクトルがアキレウスに討たれて12日目の朝となったときアポロンは他の神々に向かいアキレウスの所業を非難した。
それに対しヘラが怒り反論したが、ゼウスがそこへ仲裁に入りイーリスにテティスを呼びに行かせた。
テティスがオリュンポスに着くとゼウスと他の神々が彼女の訪れを待っていた。アテナが彼女に席を譲り大神の隣に座るとヘラが黄金の杯を渡しやさしい言葉をかける。テティスが杯を飲み干すとゼウスが一同の前で語り始めた。
“テティスよ、オリュンポスへよく来てくれた。実はこの9日間ヘクトルの遺体とアキレウスをめぐって神々の間でいさかいが起こっている。ヘルメスに遺体を盗ませようとしている者達がいるのだがわしとしてはアキレウスの顔を立ててやりたいと思っている。そなたは息子の所へ行ってヘクトルの亡骸を返さない事を神々が、特にわしが快く思っていないと伝えて欲しい。わしはイーリスをプリアモスの所へ使いに行かせ彼自身が莫大な身代を携えアキレウスの陣屋に迎えに行くよう伝えるつもりだ。”大神のこの言葉にテティスに依存はなくすぐさま息子の元へと向かった。
テティスがアキレウスの陣屋に降り立つと未だ悲嘆に暮れる彼の姿があった。その周りではミュルミドネスらが食事の支度に取り掛かっている。テティスは息子のそばにより彼を慰めゼウスの言葉を伝えるとヘクトルの亡骸を返すよう彼をさとした。アキレウスはゼウスの言葉に従うと母の説得に応じた。

ヘルメス

一方イーリスはゼウスの言葉を伝えるべくプリアモスの屋敷を訪れた。屋敷の中では皆一同に嘆き悲しんでいるところであった。
イーリスはプリアモスの傍らに立つと老王に語りかけた。“プリアモスよ、恐れることはない。私はゼウスの使者である。ゼウスはそなたの身を案じ憐れんでおられる。そなたは一人で莫大な身代を携えアキレウスの陣屋に赴きヘクトルの亡骸を引き取ってくるのだ。ただ年老いた伝令ならば一人だけ同行させても良い。そなたたちにはヘルメスが案内人として導いてくださるし、アキレウスは必ずそなたを親切にいたわって身柄を返してくれるであろう。”そう言うとイーリスは立ち去った。
プリアモスはすぐさま息子を迎えに行く用意をはじめ、一同は彼を引きとめたが老王の決意は変わらず皆を振り切りゼウスに祈願し伝令のイダイオスと二人でイリオス城を後にした。
その光景を見ていたゼウスはわが子ヘルメスにすぐさまプリアモスに同行し他のアカイア兵から彼を守るように命じた。ヘルメスは若者の姿になって地上に降り立つとクサントス河のほとりで騾馬と馬に水を飲ませている二人のそばに歩み寄った。
ヘルメスの姿を見た二人は彼を恐れたが、神はやさしく語りかけ二人を守護することを約束した。プリアモスは神の加護だと思いつつも彼がヘルメス本人とは気づかず若者の素性を尋ねると神はミュルミドネスの一人でアキレウスの従士だと答えた。神の言葉を信じた老王は息子の様子を尋ねるとアキレウスの陣屋に連れて行ってくれるよう頼み込んだ。ヘルメスはプリアモスの差し出した謝礼は拒んだものの護衛をして案内することは快く引き受けた。


アキレウス&プリアモス
一行がミュルミドネスの陣営に着くと見張りの兵士らは夜食の用意をしているところであった。ヘルメスはその者達に眠りを振りかけると閂を引き抜き門を開いた。中庭に入りアキレウス以外は3人がかりでないと開かない扉を開けてやり、アキレウスへの贈り物を中へ運ぶと自分がヘルメス神であったことを告げ、自分はここで引き上げるがアキレウスを何としても説得するようにと言い残しオリュンポスへと帰っていった。
プリアモスはイダイオスに馬と騾馬の番をさせ一人アキレウスの陣屋に入って行った。アキレウスは他のミュルミドネスから離れて座っておりそばにはアウトメドンとアルキモスだけが傍らで立ち働いていた。アキレウスは食事を終えたところでプリアモスは誰にも気がつかれずにそばにより、彼の膝にすがりその手に接吻した。アキレウスはプリアモスの姿を見て仰天し他の皆も驚いていたが老王は気にせずアキレウスに話し掛けた。
“アキレウスよ、どうかお父上の事を思い出していただきたい。きっと私と年の頃も同じで貴方がトロイアから帰ってくることを心待ちにしているに違いない。この私には50人の息子がおりましたがそのほとんどか帰らぬ人となってしまった。町と民を守っていてくれた息子へクトルも先頃貴方に討ち取られてしまった。今私がここにいるのはそのヘクトルのため彼の身柄を譲り受けたく莫大な身代も持参しております。どうかお父上のことを思い起こしこの年寄りを憐れんでください。”プリアモスはわが子を殺した男の前に手を差し伸べるという屈辱に耐えながらもアキレウスに対し必死に懇願した。


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アキレウスはプリアモスの言葉に故郷の父への想いをかきたてられ涙を流し老王の手を取って“なんと気の毒な方だ。しかし単身でこのアカイア陣営に足を運ぶとは・・・貴方の心は鉄のようだ。私の父は神々に愛されミュルミドン人の王となり女神を妻に与えられたが王位を継ぐべきたった一人の息子は近くこの世を去る運命にある。御老体よ、以前は貴方も幸せな方だったはずだ。ご子息のことはいつまでも嘆いていても再び蘇らすことはできないのです。”とプリアモスにやさしく語りかけ椅子をすすめた。
プリアモスは座ることを拒み“どうかこの莫大な身代を受け取り早く亡骸を返してください。そして私の命を助けてくれた慈悲深き貴方であるからどうかこれらの品々を嘉納してこのままお国へお帰りください。”老王がそう言うとアキレウスは彼を睨みつけ“プリアモス王よ、私を怒らせないでいただきたい。ヘクトルは母の言いつけもあり私のほうからお返しするつもりだったし、貴方が神々のどなたかの導きでここに来たことも分かっている。これ以上私の心を惑わすようなことは言わないでほしい。さもなくばこの陣屋の中で嘆願者として来た貴方に対しゼウスの言いつけに背くことになるかも知れぬ。”アキレウスがそう言うとプリアモスは恐れをなし彼の言葉に従った。
アキレウスはアウトメドンとアルキモスを従え陣屋の外に出るとイダイオスを中に招き入れ荷馬車から身代を下ろした。そして侍女を呼びプリアモスに見えないようにヘクトルの屍を清めさせるとアキレウス自ら遺体を抱き上げて寝台に寝かし部下たちとともに荷馬車に担ぎ上げた。アキレウスはこのときパトロクロスの名を呼びどうかヘクトルの遺体を父親に返すことを許してほしいと祈った。
アキレウスは陣屋に戻るとプリアモスに亡骸を返す準備が整ったことを伝え彼を食事に誘った。そして自ら羊を屠り、部下たちがそれを処理し串に刺して焼き上げると、アウトメドンがパンを籠に入れアキレウスが肉を切り分けた。食事が終わるとアキレウスはプリアモスのために寝所を入り口の柱廊の下にしつらえた。


豆知識:入り口の柱廊に寝所をしつらえる

泊り客を入り口の柱廊で寝かせるのは当時の慣習だったらしいが、この場合夜中密かに出立しなければならないことを見越したアキレウスの配慮と考えられる。



アキレウスは外で寝かせるのは他のアカイオイに見つからないようにするためだとその非礼を詫び、ヘクトルの葬儀にかける日数を聞いた。プリアモスが11日間の休戦を申し出るとアキレウスは承知し彼の右の手首を握った。
プリアモスとイダイオスは陣屋の入り口で眠りにつき、アキレウスはブリセイスを伴い屋敷の奥で床についた。
一方ヘルメスはプリアモスの身を案じ彼の枕もとに立つと“アキレウスが許したとはいえ敵陣で寝ているとは少しも危険だとは思わぬのか。万一アガメムノンや他のアカイア人がこのことを知ったら後に残した息子たちがその3倍の身代を払うことになるのだぞ。”と老王をたたき起こした。ヘルメス神の導きで2人はイリオス城へと帰っていった。
ヘクトルを悼むアンドロマケ 2人が町へ向かって馬車を進めているとカッサンドラがいち早く気づき町中のトロイア人に王とヘクトルの帰還を呼びかけた。カッサンドラの声を聞いたトロイアの人々は城門の近くでプリアモスを迎えヘクトルの姿を見ると皆彼の死を悼み嘆き悲しんだ。
遺体をイリオス城へと運び寝台の上に寝かせるとアンドロマケが彼の頭を抱き涙にくれながら語りかける。それに続き王妃へカベ、ヘレネも彼の亡骸を前にして泣き崩れた。ヘレネにとってヘクトルは異国の地にて唯一の理解者だったのだ。
プリアモス王はアキレウスが葬儀の為に11日の猶予をくれたことを話し、町を挙げて弔いの用意をさせた。トロイアの人々は9日間かけて薪の用意をし、10日目の朝亡骸を焼く火を灯した。炎が消えると兄弟や戦友達がその骨を拾い集め黄金の壷に納めた。それを穴に埋め大石を引き積め塚を築くと供養の宴席が設けられた。


アンドロマケの嘆き

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