「誰にでもわかるハイデガー」  カセットブック

「文学部唯野教授」と「残像に口紅を」の執筆で胃に二つ穴を開け下血した筒井康隆が、入院中読んでいた「存在と時間」をできるだけわかりやすく解説した講演のカセット収録版。個室で次々とまわりの患者が死んでいく状況と、サラリーマン時代にハイデガーの師匠筋のフッサールの書物を読んでいたことから、読もうと思い至ったらしい。
ハイデガーにとって実存という状態における平均的日常性は非本来的であるという。では本当の実存とは何かというと、それは死を見つめるということである。死を了解する存在の仕方、それが現存在(今あるということ)である。そこでは共現存在、すなわち自分以外の人にたいする顧慮(気づかい)といったものも大したことではない。結局それは、自分のためになり保身につながるという打算から生まれた好意にすぎないからだ。他人とは、自分のための道具的存在者にすぎない。つまるところ、死についてくどくど考えない人はどんなにハッピーで親切な善人でも死人同然ということらしい。
そやつらをハイデガーは世人と呼ぶ。世人は規範的で、空談に我を忘れ死を忘れる。恐れや戦慄仰天狼狽といった刺激と無縁ではないが、それらはすべて非本来的なバカ騒ぎにすぎない。だがそやつら世人の、本来的な生への突破口として「不安」がある。日常の合い間に顔をのぞかせるこの「不安」こそ、ハイデガーの勧めるものなのだ。当然この不安とは死に対する不安ということになるのだろう。それと向きあって、先駆的了解(死に先駆けてそれを想像し了解する)をなすこと、そしてつねに最極限の未了(死の直前)を生きつづけるということ、それが求められている。死という想像外の、言葉外のしろものにおのれを投げ出し、言明でなく沈黙によって開示(了解)すること、それによって世人から孤立し本来的な生を回復できる、それが「存在と時間」のグランドデザインだというのだ。
不安は良心に結びつき、責めあり(負い目)の状態が決意を生む。なんだか感動的だが、ではいったい自分以外の何に対して負い目をもつべきなのだろうか。それが道具的存在者でしかない他人に向けられるというのでは話が成り立たない。未来を見ることで既在(過去)を本当にとりもどし、瞬視(今)を実りあるものにする(この3時点にわたる了解は一遍になされるという)ことができるというのだが、ではその生とは何に寄与されるべきなのか。まさか動物並みに、一瞬一瞬の生を死ぬまでかみしめて生きることに意義があるというのか、あるいは生などというものは屁のようなもので、武士道のように「生きることは死ぬことと見つけたり」ということなのか。その肝心なところを筒井は言及していない、ひょっとしてハイデガー自身も言及していないのかもしれない。というのも彼の哲学は意義など求めず、われわれはこういう状態にあるという厳然とした事実の表明のみをめざしたのではないかと、テープを聴きおえて感じたからだ。
ただ、このあとハイデガー自身は、民族の宿命といったものに傾倒していくらしい。ナチスへの加担自体の是非よりも、彼のその行為が彼の哲学の延長線上にあるのか、はたまた彼の哲学の厳しさの頓挫のしるしなのかに興味がある。のちにハイデガーはユダヤ人デリダの擁護で復権するわけだが、それにしてもフッサールにアレントと、ユダヤ人との重要な交流をへてなおナチスに積極的に入党するというのだからこの人、本当にわけがわからない。人情、などというとそれこそ非本来的だと言われそうだが。そういう、生活と思想のダブルスタンダードの問題もふくめて、わかるどころかますますわけがわからんというのが正直な感想である。