春木屋 博物史?
『春木屋』は、昭和23年(1948)戦後まもなく創業したと記録に残っています。
「春木屋」の由来は、初代の先祖が、今となっては何処だったのか分かりませんが、春木村(はるきむら?)と言う村の出身であったため、と言う説と、初代の父の名が「春吉」(はるきち)であったからと言う説があります。

〈創業前?戦前の会社として立ち上げる前の春木屋?の写真 場所は材木町らしいです。 看板には「パン喫茶洋食」と書いてあります。〉

まず初めに、「春木屋」を語るには、破天荒な初代店主 佐藤広吉(ひろきち)について、三代目である私が聞いた事を話します。

小さいころから暴れん坊だったようで、よく店にいらっしゃった幼馴染の方が、「お宅のお爺ちゃんは、きかなくってねー!怒りんぼうで、大変だったんだよ!」と、来るたびに言っていたので、よほど印象に残るきかん坊だったようです。

学生の頃の話を聞いた事があります。

すぐに生徒を殴る先生がいて、みんなが怖がり困っていたので、ある時殴られた後 わざと倒れて口から泡をふいたそうです。救急車を呼ぶような騒ぎになって・・・それ以降その先生は、あまり生徒を叩かなくなったそうです。「俺は,皆のために良い事をしたんだ!」と自慢げに話していました。


また、「俺は、今まで13の職業をやったんだ!」といっていました。
今までに聞いた事、写真などが残っていて何と無く分かっている事、面白いエピソードをまとめてみると・・・・

1.パン屋 学校の羽目板を剥がして焚き火をしたりしていたので退学させられ、おばさんに連れられて、上野 ナガフジ(現在は、無くなってしまった様ですが、タマゴパン、甘食パンで有名な老舗パン屋)に奉公に出されたそうです。  その奉公先でも「職人が30人位居たけど、その中でも俺が一番 男前だったから、飯炊きの○○ちゃんが俺に惚れちゃって、飯の量でも魚でも一番大きいのが来たんだ。」と自慢げに語っていました。

本当かどうかは分かりませんが、「うぐいすパンを考案したのは俺だ!」とも言っていました。「ナガフジ」がうぐいすパン発祥の店であれば、もしかすると可能性はあるかもしれませんね。(笑)

 初代のパン屋時代の写

2. もなか屋?

3. パチンコ屋 九州や関西に計3店舗展開していたそうですが、なかなか目が届かなくて トラブルが多く断念したようです。

4. 富くじ屋? 今で言う、宝くじ屋でしょうか?

5.アイスキャンディー屋 「宇都宮で最初に「アイスキャンディー」を売ったのは俺だ!」と言っていました。

 アイスキャンディーの宣伝のため、チン・ドン屋さんを雇って記念写真? 
 場所は、二荒山神社参道、後ろの建物は「旧足利銀行」 

奥の看板には、「長谷川式冷凍機関関東地方一手販売・アイスキャンディー・東京キング○○○東部宣傳部出張」と、手前の看板は、「今流行の最新○○・キングコリント・来よ!見よ!楽し○○」なんか・・・色々と手広く遣っていた様ですね。(笑)            「キングコリント」はスマートボール屋の屋号の様です。

6. スマートボール屋(現在のオリオン通りに在った様です。中央手前が初代)




創業当時?大通り拡張前の春木屋、現在の春木屋の目の前の場所 看板には、洋服百貨、おしやれ教室?二階は食堂?左端には宝くじの文字が・・・モダンな建物ですが、面白い店構え。(笑)

 

真ん中附近 二荒山神社の鳥居 向かい側 角に「百貨 ハルキヤ」とあります。

7. 洋服屋 初代の姉の娘が、アメリカ人高官の方と結婚していたため、そのコネクションで進駐軍の購買部「PX」  (PosteXchang・現在の銀座和光)に出入りして、洋服、化粧品、食品、舶来品などを仕入れていた様です。 

アロハシャツや、今で言うデニムを仕入れて来て「テキサス・パンツ」と言う名で売っていた様です。

8. タバコ屋? 春木屋の創業当時からの履歴事項全部証明書と言うのを見てみると、目的の所に、「1飲食業 2煙草小売業 3物品販売業 4前各号に付帯する一切の事業」となっています。「PX]でライターなども仕入れて売っていた様です。

9. 鵜飼?・・・職業と言うよりは趣味だったようですが、当時「鵜」を買っていたらしく近所の釡川や田川で魚を獲っていた様です。

初代が鵜を買っていた時の写真

近年ですが、エピソードがあります。 近所の釣り好きの方が、よく自転車の後ろに釣り道具を載せて釣りに行くのを見かけるので、ある時「○○さん、いつも釣りに行ってる様ですが、釣れるんですか?」と問いかけると「俺の釣りは、遊びだからそんなに釣れる訳じゃないよ。お宅のお爺ちゃんだよ!俺の釣ってる前で、鵜を放って根こそぎ魚獲って行っちゃうんだから!かなわないよ!」と昔話を聞きました。

10. 貸しボート屋(↓に続く)

知り合いの方から提供していただいた、当時のひょうたん池で、貸しボートの風景?

(昭和40年頃?の八幡山東側 大曽地区の地図、左上の方の池の近くに「池の端 ロッジ」)

11. 休憩所?宇都宮を代表する公園、八幡山公園のひょうたん池にボートを何艘か浮かべて、時間いくらで貸していたそうです。さらにその横には、「ロッジ」と言う名の休憩所?を経営し、映画館のビラに「デートコース八幡山の最終点!ロッジ」と言うキャッチコピーで宣伝していたらしいです。(笑)

(当時八幡山公園は、若者たちのデートコースとして有名だった様です。)

12.珈琲豆屋 「ビーコン商会」と言う屋号で、現在の日の町通りに在ったそうです。このお店で一番売れていた配合のブレンドが、当時の春木屋で出されていたコーヒーです。(メインのハワイコナ種がが自然災害により壊滅的になり異常に高騰したため一時期は封印されていました)現在は「復刻ブレンド」として当時と同じレシピのブレンドコーヒーを、お店で提供しています。

13. 温泉?(笑)・・・私が店で接客していると、あるお客さんが、(客)「お宅は、むかし温泉やっていたよね!」と、 (私)「????・・・いや~温泉なんて話聞いた事無いです。何処かとお間違えなんじゃないですか?」(客)「だって俺は、お宅の風呂に入ったことあるよ!3階でタイル張りの三角みたいな風呂だろ!「春木屋温泉」て言ってたんだよ!」(私)「えぇ~?確かに、昔のお風呂はそんな感じでした・・・・けど??」こお客さん何者?なんで家の風呂のこと知ってるの???

お客さん帰った後に、母に「うちで温泉遣っていた事あるの?」と、聞くと

(母)「それは、温泉じゃないけど・・・・」昔のクーラーは屋上にクーリングタワーと言う機械があって、水を巡回させて冷気を作るさいに温水が排出されていたらしい。その温水を,初代がホースで三階の風呂に引き込んで、温水かけ流しにしてお客さんに「貸し風呂」をしていたらしい。それをお客さん達が、温泉でも無いのに、勝手に「春木屋温泉」などと言い始めた様です。(笑)当時は、家にお風呂がある家がそう多く無かった様ですから、需要が在ったのかもしれません。

また、作新学園の野球部の応援が好きで、よく選手たちの寮に、肉などの食べ物を持って行って選手たちに振るまっていたそうです。試合があると、どこにでも付いて行き、上半身裸で黒タイツ(力道山の真似だったらしい)姿で応援していたそうです。応援に一生懸命で、店なんか何日もそっちのけ。家族が「何処に行っているのだろう?」と心配していると。新聞に、上半身裸で作新野球部の応援をしている姿が写真で載っていて、「今、○○にいるんだ。」と分かったそうです。

作新学院の応援、甲子園球場?で張り切る初代!

競輪も大好きで、八幡山の競輪場を「山の学校!」と言って通っていました。お気に入りの選手がいると、その選手にくっいて開催場を回って歩いたそうです。

ある時は、あっちこっち追いかけたあげく、大宮の旅館でお金を使い果たして 「金が無くなって、旅館から出られなくなったから、大宮の旅館まで金を持って来てくれ。」と電話があって、家族が大宮の旅館までお金を届けに行ったそうです。

又、ある方から、「お宅のお爺ちゃんは、毎回違う床屋に行って『春木屋の大福はデカくてうまい!カレーが美味い!珈琲が香り高い!』とか、宣伝して歩いたんだって。昔は、床屋や銭湯が社交の場的な施設だったから、口コミの情報源になるのを利用した画期的な宣伝方法だったって、有名な話だよ。」と、私の知らなかった事を教えて頂いた事もあります。

遣ることは、めちゃくちゃな所もありますが、なかなかの企業家でもあったんですね。

和菓子屋の方は 戦後、作った大福や饅頭を仲見世で売り歩いていた、和菓子職人の「秋元」さんと、初代が出合い「うちの店で売りたいから持って来てくれないか。」と言うのがきっかけで販売を始めた様です。そこに、団子屋の「小林」さん、「あかず饅頭」で有名な「あかず」さん、初代の同級生の息子さんで和菓子職人の「つちや」さん、餅や饅頭を作っている「池田もち店」さん、が加わって春木屋の和菓子の礎を培ってきました。また「美弥揚」さんの人気商品「富貴豆」を継承させていただきました。

現在は、三代目の私の弟(春木屋工房)が、上の皆皆さんの技術を教えて頂き 継承し、さらに試行錯誤して、味、技術を磨いています。

今に続いている「ジャンボ大福」「ジャンボどら焼き」などは、初代の考案した物です。戦後は、砂糖など甘い物が不足していて、甘いものは皆の憧れだった様です。貴重な甘い物なので、他店では、お饅頭などはだんだん小さくなっていく傾向だったそうです、そこを逆手に取った商品だった訳です。「人と違う事を遣れ!」と、よく口癖のように言っていました。数々の職業をへて現在の飲食業と和菓子屋に行き着いた様です。それにしても・・・皆さんからお話を聞いて見ると、傍から見ても豪快で楽しい爺さんだったみたいです。

 

二代目 亘弘(のぶひろ)は、明治大学を卒業後、東京会館(日比谷)で料理の修業をし、東京オリンピック選手村のコックを経験して、春木屋に入りました。この二代目も初代程ではありませんが話題多き人物です。大酒呑みであったため、酒に関する逸話をよく周りの方達から伺います。

大学時代、仲間と海に泊りがけで遊びに行った時、夜みんなで海を見ていると、二代目が、酒を4,5本抱えて来て、みんな飲めと回し飲みを始め、しばらくして一本抱え込み一気に飲み干したそうです。さらに飲んでいると、海岸で気持ちよく寝始め、最後は友達に寝床まで運ばれたそうです。『豪快な呑みっぷりが、いまだに忘れられない。」と、二代目の学友から聞かされた事があります。

オリンピック選手村で仲良くなった選手とコック仲間たち。

東京オリンピック選手村のパス。

商店街で旅行に行った時は、部屋に着くなりバックから、ウイスキーを取り出して、コップにストレートでなみなみと注ぎ、一気に飲み干すとベッドに倒れこんだそうです。同室の方が、びっくりして「のぶちゃん!(二代目のニックネーム)大丈夫かい?」と心配すると、「あ~ぁ~!うまい!」と言って、高いびきをかいて寝てしまったそうです。

 

 

昭和33年頃、まだ仲見世が残っています。「一徳」清酒の看板が春木屋

昭和50年頃?コカコーラの看板が印象的

平成になった頃かな?

 

     「AKAITORI」

「赤い鳥」(アカイトリ)は「春木屋」の喫茶部門です。店の由来は、鈴木三重吉の童話童謡雑誌「赤い鳥」から取ったと聞きました。また、当時の「アサヒ・グラフ」?の中に「赤い鳥」と言う題名の鳳凰の様な絵を見つけ、初代が「これだー!」と叫んで、看板のデザインを頼んだら、出来が悪くてガッカリしていた、と言う話を聞きました。

    「黒カレーの歴史」

『黒カレー』は、『春木屋』(創業昭和23年)初代店主が戦後、友人と一緒に、進駐軍に荷物を納品や買い付け等(いわゆる闇屋?)している時に「進駐軍のコックからレシピを教えてもらった。」と、聞いています。          そこから始まり、二代目が「東京会館」(日比谷)で修業後、「東京オリンピック選手村」のコックを経て跡を継ぎ、初代のカレーにアレンジを加えました。当時初代が、二代目に対して「あのヤロー!ニンニクなんぞ入れやがった!」と、よくボヤいておりました。現在の「黒カレー」は、二代目の時よりニンニクを若干減らし(昔に比べ女性のお客さんが増えて「ニンニクがチョットきつい」との指摘が・・・)初代と二代目の間のニュートラルな感じにしています。「天国で仲良くしてね!」と願も込めて。(笑) 当時は「印度カレー」と言う名でメニューに載っていましたが、時代と共に国際化がなされ、近年初めて当店に来られるお客様から「印度カレーと言うからには、インド風のシャバシャバしたスープぽいカレーですか?」と聞かれる事が多くなり、「印度カレー」の響きに昔の英国式洋食カレーのイメージが薄れて、本場インド風のカレーの印象が強くなっているのを感じ、当時からお客様の間で親しまれていた、当店の「印度カレー」のニックネームだった、「黒いカレー」の方が、イメージが伝わりやすいと思い、2000年?頃から「黒カレー」とする事にいたしました。

     「こだわりの製法」

材料の豚肉・鶏肉・玉ねぎ・生姜・ニンニク等は、国産品を使用しています。塩は、赤穂の塩を使用しています。   粉とスパイスをオーブンで一日じっくりと焼いて自家製ルーを作ります。   鶏肉をオーブンでローストして皮をパリッとさせてから(当時は炒めてから鍋に入れていました。煮込むと鳥の皮が「もつ煮」の様にプルプルして美味しいのですが、女性にはこれが嫌いな方が多く、鳥の皮だけ残す方多かったので、オーブンで、一度ローストして皮をパリパリにしてから煮込む様にすると、皮だけ残す方がほとんど無くなりました。)炒めた豚肉と大量の玉ねぎ等をベースに、スパイス、調味料、自家製ルーを加え、煮込んでから一度冷やして完成させます。・・・・なぜ黒いかって?企業秘密です。(笑)

下は当時のメニューの表紙と内容です

 

「名物カレー」の下に「印度カレー…100円」と書かれているのが現在の「黒カレー」のルーツです。コーヒーが60円、商品の値段や、電話番号が4ケタしか無いのが時代を物語っていますね。

       MATCH

現存する歴代マッチ(表と裏)デザインがなかなか良いです!

赤い鳥のデザインがカッコイイ!

  大人しいデザイン

 表のコックのモデルは二代目? 

 良いデザインなのでマイナーチェンジ で二期

 

    なかなかモダンなデザイン

チョットHAWAIIを意識しています。

こうして並べるとなかなかですね!歴史を感じます!

この春木屋博物史は、未掲載の資料やエピソードがありましたら更新していきたいと思います。皆さんの中で何か知っていたり、面白い写真や資料などありましたら、拝借して掲載できれば良いなと思っております。宜しくお願い致します!